小説「新・人間革命」人材城 30 2012年5月15日

柳節夫から、山本伸一の伝言を聞き、手拭いを受け取った五木の同志は、語り合った。
「山本先生が、私たちの記事を読んでくださり、心を砕いてくださった」
「五木は、山また山の地域で、学会員も、決して多いわけではない。
しかし、先生は、いつも、じっと見守ってくださっている。水没する最後の日まで頑張らにゃいかん」
彼らが、伸一の五木への思いを、最初に痛感したのは、一九六三年(昭和三十八年)八月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。
五木村でも、死者・行方不明者十一人、
流失・全壊家屋百四十四戸、半壊家屋四十五戸という甚大な被害に見舞われたのである。
その時、学会では、直ちに、八代支部支部幹部を中心に派遣隊を結成し、被災地入りした。
そして、五木村の学会員の班長宅に災害対策本部を設け、救援活動にあたった。
伸一は、この派遣隊メンバーに伝言した。
「五木の同志のことを心配しています。私も、題目を送り続けます。派遣隊は、私に代わって、しっかり、みんなを激励してください。よろしく頼みます」
川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。
五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと、山本先生は、ここまで心配してくれていたのかと、涙が止まらなかった。
そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、
救援活動に奔走したのだ。
『私たちの行動で、学会の心を伝えよう』と、メンバーは決意していたのである。
五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。一九五五年(昭和三十年)ごろから、村に学会員が誕生し、弘教活動が始まった。
すると、学会への無認識と偏見から、反発が起こった。
ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、三世帯にまでなってしまったという歴史があった。
困難とは、発展のための階段である。