2012-05-26から1日間の記事一覧
大正尋常小学校の教員、保護者は、権力者の不当な圧力で牧口常三郎が、同じ下谷区の西町尋常小学校に転勤させられるという話を耳にする。 誰もが強い憤りを覚えた。 牧口の転任の撤回を求めて、教員は辞表を提出し、保護者は子どもを学校にやらないと、『同…
牧口常三郎は、一九一三年(大正二年)に赴任した東盛尋常小学校をはじめ、大正尋常小学校、西町尋常小学校、三笠尋常小学校、白金尋常小学校、麻布新堀尋常小学校で、校長を歴任することになる。 牧口が最初に校長として赴任した、東盛尋常小学校は、東京市…
牧口常三郎は、一八九九年(明治三十二年)七月、北海道師範学校の附属小学校で主事事務取扱(校長代理)となり、さらに、翌年一月、師範学校の舎監となる。 二十八歳の時である。しかも牧口は、地理学の研究を重ね、原稿も書きためてきた。 この原稿を携え…
牧口長七が北海道に渡ったのは、十三歳ごろであったようだ。 『音信不通になったままの実父を捜したい』という思いもあったのかもしれない。 彼は、小樽警察署で給仕をしながら、寸暇を見つけては読書と勉強に励んだ。 その熱心な勉強ぶりから、つけられたニ…
山本伸一は、五木地方に伝わる子守唄の意味や背景を考えると、社会の不条理のしわ寄せは、最終的には、最も弱い者、つまり、庶民に、しかも、小さな子どもたちにくることを、あらためて痛感せざるを得なかった。 大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態…
五木地方の子守唄には、”口うるさい老婆は、ガンと殴りつけろ”という、守子たちの激しい憎悪を露にした歌詞さえもある。 哀切の調べに満ちた子守唄のなかに流れているのは、卑下や疎外感、あきらめだけではない。 批判や居直り、怒りがあり、そして、強かな…
「五木の子守唄」は、母親が子どもを寝かしつけるための、愛に満ちた歌ではない。 子守をするために年季奉公などに出された「守子」たちの歌である。 その娘たちが、言うに言われぬ、子守の辛さ、悲しさ、やるせなさを込めて歌った、慰めの歌といえる。 山本…
五木村を流れる川辺川は、一九六三年(昭和三十八年)から六五年(同四十年)まで、連続して大出水を重ねたことから、治水のため、それまでに出ていたダム建設の計画が具体化していったのである。 五木村の村議会は反対を決議したが、補償問題などについて、…
五木村の同志が、弘教に励んだのは、村の人びとに幸せになってほしかったからだ。 人間は、何を信じるのかによって、生き方、考え方が決まっていく。宗教とは、その生き方の根本となる教えである。 ゆえに、その教えの高低浅深を考察、検証し、対話していく…
柳節夫から、山本伸一の伝言を聞き、手拭いを受け取った五木の同志は、語り合った。 「山本先生が、私たちの記事を読んでくださり、心を砕いてくださった」 「五木は、山また山の地域で、学会員も、決して多いわけではない。 しかし、先生は、いつも、じっと…
五木村は、川辺川のダム建設計画によって、やがて、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになっていた。 聖教新聞では、湖底に消えゆくこの村の学会員の活躍を紹介したのである。 ――五木村には、一大ブロック五十三世帯の学会員がおり、座談会には…
原谷兄弟の父親は、熱海で、中風で寝たきりになっていた。再婚した義母が、旅館で働きながら、面倒をみてくれていた。 長男の永太が、「借金は、兄弟で全額返済した」と言っても、父親は信用しなかった。 彼らは、やむなく、返済した領収書を持って、再度、…
原谷永太は、弟の正太と正輝に言った。 「俺たちが、ここで負けたら、地域の広宣流布はなかばい。絶対に信心で乗り越えていくばい!」 『広宣流布に生きよう! 学会に傷をつけまい』という彼らの使命感、責任感が、勇気を奮い起こさせた。 人間は窮地に陥っ…
原谷永太も、弟の正太、正輝も、壮年幹部の顔を食い入るように見つめ、指導を聞いた。 「父親の借金をどうするかは、三人で話し合って決める問題だ。 どうするにせよ、同業者も、周囲の人たちも、みんな、君たちの姿を見ている。 君たちは、山本先生の弟子じ…
九州方面の壮年幹部は、原谷三兄弟の顔をのぞき込むようにして言葉をついだ。 「この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも、大成長できるよ。 御書に、親が子を思うゆえに、修学に励まぬ子どもを、槻の木の弓で…
原谷家の兄弟姉妹は、皆、懸命に信心に励んだ。 やがて、長男の永太をはじめ、次男、三男、長女、次女、三女も、男女青年部の支部の責任者として活躍するようになった。 また、父親の了承を得たうえで、三兄弟は、それぞれ独立し、店をもつようになった。 彼…
原谷永太は、父親が信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手なことが、腹に据えかねていた。毎日が、爆発しそうになる怒りとの闘いであった。 辛い思いをしているのは、永太だけでなく、弟の正太も、正輝も同じだった。 しかし、彼らは耐えた。 「…
一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一が第三代会長に就任した。 『青年会長の誕生だ! 新時代の到来だ!』 学会中に歓喜の波動は広がり、熊本の地にも及んだ。原谷永太も、正太も、決意を新たにして、弘教に走った。三男の正輝も入会した。 三人は…