小説「新・人間革命」 人材城32 2012年 5月17日

五木村を流れる川辺川は、一九六三年(昭和三十八年)から六五年(同四十年)まで、連続して大出水を重ねたことから、治水のため、それまでに出ていたダム建設の計画が具体化していったのである。
五木村の村議会は反対を決議したが、補償問題などについて、国や県との話し合いが行われ、計画は実施の方向で進んでいった。
しかし、故郷の集落が、幾つも湖底に沈むとあって、住民の気持ちは複雑であった。
そのなかで五木の中核メンバーは、?今いる同志に、信心の大確信をもってもらいたい。
五木の地で信心の土台を培ったと、胸を張って言える人になってほしい?と、懸命に、激励、指導に回ってきた。
その活躍の様子を紹介した聖教新聞の記事が、山本伸一の目にとまったのだ。そして、五木の同志は、伸一の激励を受けたのである。
幾人ものメンバーから、伸一に、御礼と決意の手紙が届いた。そのなかの一人は、村の様子について、こう綴っていた。
「五木は、山が多く耕作地が乏しいため、林業とお茶、椎茸作りぐらいで、これといった産業もない貧しい村です。
たくさんの人が都市に移り、過疎化も進んでいます。
気候は厳しく、冬には腰まで雪が積もることもあります。五木と言えば、平家の落人伝説や『五木の子守唄』が有名ですが、どちらも運命の悲惨さを感じさせます。
しかし、五木は、私たちの故郷です。緑豊かな五木が、私は大好きです。
必ず、五木の宿命を転換し、ここに、幸福の花園を築いていこうと、同志は、明るく、はつらつと頑張っています」
愛郷の心から、広宣流布の情熱は燃え上がる。郷土を愛するがゆえに、わが同志は、地域の立正安国のために立つのである。
手紙を読んだ伸一は、妻の峯子に言った。
「いつか、五木に行きたいね。『五木の子守唄』も、いい歌じゃないか。哀調は帯びているが、ただ弱々しく、めそめそしているだけの歌じゃないんだよ」