小説「新・人間革命」人材城 35 2012年5月21日

山本伸一は、五木地方に伝わる子守唄の意味や背景を考えると、社会の不条理のしわ寄せは、最終的には、最も弱い者、つまり、庶民に、しかも、小さな子どもたちにくることを、あらためて痛感せざるを得なかった。
大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。
五木の守子に限らず、明治、大正、昭和という激動の時代の底辺で、悲惨な境遇のなかで生きることを余儀なくされた子どもたちは少なくない。
牧口自身も、その幼少期は、不遇であったといってよい。
牧口は、一八七一年(明治四年)の六月六日(旧暦)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市荒浜)に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。
父親の長松は、長七の幼年期に、北海道へ出稼ぎに行ったまま、音信が途絶えてしまう。
一八七六年(明治九年)に母・イネは再婚。長七は、父・長松の妹のトリが嫁いでいた牧口善太夫の家に養子として引き取られる。
日本は、七二年(同五年)に、国民皆学をめざして学制を実施しており、牧口姓となった長七も、七八年(同十一年)に尋常小学に入学した。
当時の修学期間は、下等小学四年、上等小学四年であった。
八二年(同十五年)、牧口長七は下等四年を修了すると、養父のもとで働くことになった。
成績優秀であった彼は、周囲から才能を惜しまれ、進学を勧められたが、家庭の事情が、それを許さなかった。
荒浜村の七四年(同七年)度の就学率は、約一七パーセントにすぎない。
牧口の入学は、その四年後である。尋常小学に入学できた彼は、教育の面では、恵まれていたといえるのかもしれない。
子どもがいかに扱われているか──そこに、その国の文化、本当の豊かさを見極める重要な尺度があるといってよい。