小説「新・人間革命」 人材城 23 2012年5月5日

原谷永太は、父親が信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手なことが、腹に据えかねていた。毎日が、爆発しそうになる怒りとの闘いであった。
辛い思いをしているのは、永太だけでなく、弟の正太も、正輝も同じだった。
しかし、彼らは耐えた。
「忍耐は能力である」(注)とは、スペインの大建築家ガウディの卓見である。
原谷三兄弟は、苦しさ、悔しさで、いたたまれない気持ちになると、バイクを駆って、田原坂に行った。
田原坂は、一八七七年(明治十年)、西南戦争で、政府軍と西郷隆盛が率いる鹿児島士族らとの、激戦が展開された場所である。
原谷三兄弟は、坂の上にバイクを止め、眼下に広がる緑を眺めながら、「田原坂」の歌を歌った。
第二代会長の戸田城聖も、また、会長の山本伸一も、よくこの歌を歌い、舞ったと聞かされていたからだ。
 
  雨はふるふる 人馬はぬれる
  越すにこされぬ 田原坂
  
声を合わせて何度も歌った。歌ううちに、悠々と舞を舞う伸一の雄姿が思い描かれ、暗く沈んだ心が晴れ、勇気が湧くのを覚えた。
永太は、弟たちに言った。
「山本先生も、青年時代、戸田先生の事業の再建のために、多忙を極めるなか、苦労に苦労を重ねて学会活動ばされたと伺った。
しかも、先生は、胸を病んでおられて、連日、発熱と闘い、事業の活路を切り開かれた。
俺たちも、負けるわけにはいかん。みんなで力を合わせて、地域の広宣流布の礎ば築こう。そして、親父の会社も発展させよう」
兄と二人の弟は、目と目を見つめ合い、頷き合った。
彼らは、戦った。一歩も引かなかった。烈風に帆を揚げる船のように、広宣流布の大海原へ、勇んで船出していったのである。