第37回「SGIの日」記念提言  ㊥1 2012-1-26 /28

かけがえのない一人を徹して励まし「自他共の幸福」を目指す
 
仏法の智慧は相手を思う慈愛の結晶
 釈尊が説いた八万法蔵という膨大な教説も、その大半は、哲学者のカール・ヤスパースが「仏陀はひとりひとりに語り、小さなグループで語った」「一切の者にむかうとは、ひとりひとりの人にむかうことにほかならない」(峰島旭雄訳『佛陀と龍樹』理想社)と記したように、さまざまな悩みに直面する一人一人と向き合う中で説かれたものでした。「友よ」と呼びかけ、相手の心にどこまでも寄り添い、対話を通して苦しみの本質を浮かび上がらせながら、本人の気づきを促し、血肉化できるような諭しの言葉をかけたのです。
 仏法の智慧は、毒矢の譬え=注3=に象徴されるように、形而上学的な概念や哲学的な論争にふけるのではない。あくまで、目の前にいるかけがえのない一人を何としても救いたいとの思いがその源にあるからこそ尽きることなく顕現しゆくものに他なりません。
 日蓮大聖人の教えにおいても、弟子たちの苦難をわが事のように嘆き、抱きかかえるように励ましながら、試練に負けない人生を歩むことを願う慈愛と祈りの結晶として発せられた言々句々が、現代においても私どもの人生の重要な指針となっています。
 SGIでは、こうした仏法の精神に立って、192カ国・地域で「一対一の対話」を根本に励ましの輪を広げながら、心と心の絆を堅実に育んできました。
 そして、災害のような緊急時には、会館に地域の被災者を受け入れることをはじめ、救援物資の搬入や配布、被災地での片付けの応援など、さまざまな活動に取り組んできました。被災者でありながら、大変な状況にある人たちをそのままにしてはおけないと、やむにやまれぬ思いで行動し、悲しみや苦しみを一緒になって受け止め、励ましの対話を続けてきたメンバーも少なくありません。
 こうした取り組みはあくまで、人生の喜びや悲しみを分かち合い、ともに支え合う中で「自他共の幸福」を目指してきた、私どもの日常的な活動の延長線上にあるものでした。
 昨年6月にスイスで行われた国連難民高等弁務官事務所とNGO(非政府組織)との年次協議会で、「信仰を基盤とした団体の役割」に焦点が当てられた分科会が開催されたように、現実社会で起こる脅威に苦しむ人々に対して宗教団体の果たす役割が注視されるようになってきています。分科会では、私どもの代表が東日本大震災での経験を踏まえながら、エンパワーメントは、被災者自らの手による救援活動をも可能にする。それにより、人道援助は効果的かつ持続的なものになるとの報告を行いました。
 
苦悩を分かち合う絆が希望の明日を開く源泉
 
子どもや孫たちのために私は歩く
 このテーマを考える時に浮かんでくるのは、かつてキング博士が自著で紹介していた、バス・ボイコット運動に参加した一人の年配の女性の話です。
 ──人種差別が横行するバスに乗車することを拒否し、懸命に歩き続ける女性の姿を見て、心配した自動車の運転手が車を止めて、「おばあさん、おのりなさい。歩くには及びません」と声をかけた。しかし彼女は手を振って、こう断ったというのです。
 「わたしはわたし自身のために歩いているのではありません」「わたしは子供や孫のために歩いているのです」(雪山慶正訳『自由への大いなる歩み』岩波書店)と。
 たとえ災害によって身も心も傷ついていたとしても、愛する家族や仲間のために、また目の前で苦しんでいる人たちのために、自分ができることをしたいと思い、行動しようとする人は少なくないはずです。
 仏法では、どんな状況に置かれた人であっても他の人々を救う存在になることができると強調するとともに、最も苦しんだ人こそが一番幸せになる権利があると説きます。
 仏典には、「宝塔即一切衆生」(御書797㌻)とあります。「法華経」に説かれる宇宙大にして荘厳なる宝塔とは、全ての人々の本来の姿に他ならないとの仰せです。その本有の尊厳に目覚めた人は「心を壊る能わず」(同65㌻)で、どんな脅威が襲いかかり、試練に見舞われようと尊厳を壊されることは絶対にない。
 この確信で立ち上がった一人が、苦しみに沈む人たちと手を取り合い、ともに再起を期して新たな一歩を踏み出す。その輪が一人また一人と広がり、尊い生命の宝塔が林立していく中で、地域の復興も本格的な軌道に乗っていく──と、私どもは信じ、実践しているのです。
 
マータイ博士が運動にかけた信念
 近年発生した世界各地の災害において、現地の行政機能が損なわれる中、大きな役割を果たしてきたのが、地域に根ざした助け合いや支え合いの輪であり、さまざまな立場の人たちが参加して行われたボランティア活動であり、多くの国々から寄せられた支援や励ましでした。
 「突然襲いくる困窮の危険」に対する社会のセーフティーネット(安全網)を強固にするためには、災害時に示されてきたような、苦しんでいる人々とともに歩もうとする気風を常日頃から社会全体で高めつつ、支え合いや助け合いの絆をどのように積み上げていくかが課題になります。
 災害とは分野が異なりますが、民衆自身の力で環境を守る運動を、ケニアをはじめアフリカ各地で広げ、昨年亡くなられたワンガリ・マータイ博士の言葉が忘れられません。
 植樹運動を進めていく中で何度も妨害され、せっかく植えた木を傷つけられても、「木々は、私たちと同じく生き抜いた。雨が降り、太陽が輝くと、木々はいつのまにか空に向かって若葉や新芽を伸ばすのだ」と、博士は不屈の心で立ち上がりました。
 そして、自らの運動を振り返り、「民衆のために何かしてあげたい」といった気持ちではなく、「民衆とともに汗する」ことに徹したからこそ、地域の人々の力を引き出すことができたと、信念を語られていたのです(福岡伸一訳『モッタイナイで地球は緑になる』木楽舎)。
 ここに、民衆自身が巻き起こすエンパワーメントの連環が、どんな絶望の闇も打ち払い、希望の未来への旭日を立ち昇らせゆくための要諦があるのではないでしょうか。(下に続く)
 
 
語句の解説
 2008年9月、大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻が引き金となった世界的な金融危機。ほとんどの国の株式相場が暴落し、金融システム不安から国際的な金融収縮が起きた。アメリカのみならず、ヨーロッパ諸国や日本が、第2次世界大戦後初の同時マイナス成長に陥った。
 
 紀元前431年から前404年、古代ギリシャで繰り広げられた戦争。アテネを中心とする「デロス同盟」と、スパルタを中心とする「ペロポネソス同盟」との間で覇権が争われた。ペルシャの援助を受けたスパルタ側の勝利に終わったが、戦争の痛手は大きく、ギリシャ全体が衰退に向かう原因となった。
 
注3 毒矢の譬え
 観念的な議論にふける弟子を戒めるために釈尊が説いた譬え。毒矢で射られて苦しんでいる人が、だれが矢を射たのか、矢はどんな材質だったのか判明しないうちは治療しないでほしいとこだわっているうちに、命を落としてしまったとの譬えを通し、人々の苦しみを取り除く現実の行動にこそ、仏教の本義があることを諭した。