小説「新・人間革命」厚田1 2012年6月15日

 広布旅   師弟不二なり 三世まで
 
秋草の大地が続き、ところどころに茂る、色づき始めた木々が、風に揺れていた。
一九七七年(昭和五十二年)九月三十日正午過ぎ、山本伸一と妻の峯子は、札幌市豊平区の札幌創価幼稚園を車で発ち、恩師・戸田城聖の故郷である厚田村(現在の石狩市厚田区)をめざしていた。
厚田に、師の名を冠した戸田記念墓地公園が完成し、その式典に出席するためであった。
出発して一時間、緩やかな坂を上ると、豁然と景観が広がり、銀色に光る海が見えた。
車に同乗していた、副会長で北海道総合長の田原薫が伸一に言った。田原は、学生部長、青年部長等を歴任してきた人物である。
「先生。この辺りは既に厚田村で、近くに望来川があることから、ここは『望来』といいます。
流れの遅い、静かな川を意味するアイヌ語の『モライ』が語源で、字は、希望の『望』に、来るの『来』と書きます。墓地公園も、住所は、この望来になります」
「『希望が来る地』か。いい地名だね。
仏法というのは、一言すれば、希望の哲学だ。万人が己心に仏の生命を具えていると説く仏法には、どんな逆境にあろうが、絶望はない。
わが『宿命』は、この世の『使命』であると、確信していくことができる。
その確信から、努力が生まれ、人生の勝利への、さまざまな創意工夫が生まれていく。
心が敗れてしまえば、希望の種子は腐り、芽が出ることはない。希望は、豊かで、強い心の大地から生まれるんだ。自分の心の外にあるものじゃないんだ。
私たちの手で、厚田の地を、希望が来る『望来』にしていこうよ。それが、戸田先生を本当の意味で顕彰していくことになるし、弟子としてのご恩返しにもなる」
田原は、厚田に希望の春を呼ぼうとする伸一の、強い気迫を感じた。