小説「新・人間革命」厚田3 2012年6月18日

 
厚田の戸田記念墓地公園は、北東に暑寒別の山々が連なり、西には荒波躍る日本海が広がる景勝の地にある。総面積約百五十万平方メートルで、阪神甲子園球場のおよそ三十九個分の広さになる。
墓地公園内には、桜、ポプラ、イチョウプラタナスなど、十数種類六万本の木々が植えられている。
山本伸一たちの乗った車は、恩師を顕彰する墓碑のある恩師公園、墓園の管理・運営事務所である管理センター、礼拝堂、墓参者の休憩・食事処となる厚田亭などを通って、園内を一巡した。
そして、戸田講堂に向かった。戸田講堂は、法要や儀式等の各種諸行事が行われる建物である。
車中、伸一は、妻の峯子に語った。
「空気は澄み、木々も美しい。雄大な、すばらしい墓地公園だね。戸田先生もお喜びくださっているよ。私には、微笑みを浮かべられる先生のお顔が、よく見えるんだよ。
嬉しい。本当に嬉しい。弟子として、恩師を顕彰できることに勝る喜びはないもの」
伸一は、第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)の八月二十七日、北海道指導の時間をこじ開けるようにして、厚田村を訪問した。
戸田の弟子として、恩師の故郷を訪れ、会長就任の報告をするためであった。
戸田の縁者が営む戸田旅館で昼食を取り、地元の同志らと厚田の港を歩いただけの、短時間の滞在であった。
その帰路、彼は思った。
?この厚田村から、戸田先生という若鷲が、人類救済のために羽ばたいていった。
そして広宣流布の礎を築かれた。その先生を、後世永遠に顕彰していくためにも、いつかこの地に、先生の精神をとどめる、『記念の城』を築かねばならない。
それが弟子としての私の使命であり、責任である?
その思いは、時を経て熟成し、三世にわたる師弟旅の象徴ともいうべき、この墓地公園建設の構想となっていった。師ありての弟子であり、弟子ありての師である。