小説「新・人間革命」厚田 4 2012年6月19日

山本伸一が、墓園の建設を念願してきた、もう一つの理由として、いわゆる『墓地問題』があった。
それは、創価学会折伏・弘教の波が大きく広がっていった昭和三十年(一九五五年)代初めから、起こり始めた出来事であった。
学会員が、先祖代々、使用してきた他宗派の墓地に、故人を埋葬しようとすると、創価学会への?改宗?を理由に、墓地使用を拒否するケースが相次いだのである。
しかも、新たな埋葬を禁じるだけでなく、既に埋葬してある遺骨の移転も迫るようになっていった。
一九五八年(昭和三十三年)四月、戸田城聖が逝去すると、学会員を墓地から締め出そうとする動きは一段と激しさを増していった。
これを機に、学会の弘教拡大に歯止めをかけようとの狙いがあったのであろう。
また、その手口も、巧妙になっていった。 
ある寺では、改宗すれば檀徒ではなくなるので、墓地を移転しなければならないことなどを盛り込んだ、「檀徒規則」や「墓地使用規則」等をつくり、それを振りかざして、学会員の墓地使用を禁じたのである。
さらに、寺の住職が、入会した学会員の墓を掘り返し、骨壺を取り出した事例まであった。
寺が、学会員の墓を勝手に改葬し、転売してしまったという悪質な事件も起こった。
側は、「三年間、連絡がなかったので、檀家加入許可書に基づいて、墓は放棄したものと思って処分した」と言うのである。
このほか、学会員の家の墓石が倒されたり、傷つけられたりするという陰湿な事件もあった。
学会には、まだ独自の墓園はなかったし、日蓮正宗寺院の墓地も数少なかった。
学会員の弘教によって、檀徒離れが進む既成仏教各派にとっては、檀徒を引き留める最後の砦が?墓?であったのである。
それは、各派が、既に民衆を覚醒する活力を失い、もはや?葬式仏教?にすぎなくなっていることを証明する出来事でもあった。
烈風ありてこそ、新しき飛翔はある。