小説「新・人間革命」厚田 6 2012年6月21日

墓地問題では、山本伸一ら青年部の幹部が、埋葬を拒否する寺院と話し合い、多くは解決をみた。しかし、寺側が誤りを認めず、やむなく法的手段をとったケースもあった。
裁判でも、結果的に、学会員の主張が認められ、埋葬は可能となったが、できることなら、自分も家族も、学会の墓地に眠りたいというのが、同志の思いであった。
伸一は、第三代会長に就任して以来、墓園は学会が運営するのではなく、宗門に任せようと考えてきた。学会として宗門に、墓園や墓園建設用地を寄進したこともあった。
一部の寺では、墓地の整備や拡張が進められたが、全体的に見ると、宗門の墓園建設は遅々として進まなかった。
学会世帯の増加にともない、「早急に墓園をなんとかしてほしい」との会員の声は、日増しに大きくなっていったのである。
やむなく、学会として墓園構想を練っていくことになり、宗門の日達管長の了承も得て、一九七四年(昭和四十九年)十月、学会の総合的な墓園建設構想が発表されたのだ。
まず、北海道をはじめ、関東、中部、関西、九州に墓園を建設するという計画である。
伸一には、厚田村に恩師・戸田城聖の精神をとどめる「記念の城」をつくろうとの強い思いがあった。
その構想は、三世の師弟旅を象徴する壮大な墓地公園となって結実していくことになるのである。
一方、北海道の同志もまた、「北海道は、牧口初代会長、戸田第二代会長を育み、山本会長が民衆勝利の歴史を開いた天地である。
ぜひ北海道に、師弟の精神を刻印した墓園を建設したい」と、熱願していたのだ。
師の顕彰がなされてこそ、その精神も、思想も、行動も、永遠に継承されていく。
厚田村に墓地公園を建設することが正式に決定したのは、七五年(同五十年)九月であった。
基礎的な整備がなされたうえで、翌七六年(同五十一年)十月、伸一が出席して着工式が行われた。着々と工事は進められ、創価学会初の墓園が完成をみたのである。