小説「新・人間革命」厚田 35  2012年7月26日

飯野富雄と妻のチヨは、ある時、厚田地区の初代地区部長であった山内悦郎から、厚田村の使命について聞かされた。
厚田村はね、第二代会長・戸田城聖先生の故郷なんですよ。
山本先生も、青年時代に戸田先生と一緒に厚田村に来られ、世界の広宣流布を決意されているんです。
ここは、学会本部からは遠いかもしれない。
でも、これほど師匠と絆が強い村はありません。
厚田村で活動に励む私たちには、世界のどこよりも早く、広宣流布の模範の地域を築いていく使命があるんです。
その厚田村に暮らして、学会活動ができるなんて、すごいことじゃないですか!」
意義を見いだし、意義を自覚することから、価値の創造は始まる。
また、そこから、心の強さ、心の豊かさが生まれるのだ。
情熱を込めて訴える山内の話に、飯野夫妻は燃えた。勇んで弘教に走った。
苦悩に沈む人がいると聞けば、吹雪のなかでも、飛んで行って仏法対話を重ねた。
このころ、厚田村には、「聖教新聞」は小樽から郵送されていた。
そのため、村の学会員が新聞を目にできるのは、発行日から三、四日遅れてであった。夫妻は思った。
どうにかして、「聖教新聞」を、もっと早く読むことができないものか。
同志は皆、それを切望している……
飯野夫妻は、『聖教グラフ』を目にしたことが入会の契機になっただけに、機関紙誌のもつ重みや、その波及性を、身に染みて感じていたのである。
二人は、「聖教新聞」を自分たちが取りに行き、配達員に渡す中継役を買って出た。
一九六六年(昭和四十一年)のことである。
飯野は、電化製品の販売店を営んでおり、業務で使うために車を持っていた。
聖教新聞」を受け取る場所は、石狩川の渡船場の近くにあった。
夫妻は、毎日、夜明け前に車で家を出て、新聞を受け取り、厚田村に新聞を運び続けたのである。
冬場は、運び終わるまでに三時間ほどかかった。