小説「新・人間革命」 2013年 1月10日 法旗 31

創価学会の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との、戸田城聖の獄中の悟達にある。
 地涌の菩薩は、末法濁世の社会のあらゆるところで、それぞれがあるがままの姿で正法を弘め、仏法を行じていく。
  この地涌の使命を自覚し、自分自身が今いる場所で、広宣流
布のための戦いを起こすのだ。その時、何ものにも負けない地涌の生命が、わが胸中に脈打つとともに、諸天諸仏が守護し、無量の功徳に浴することができるのである。
 しかし、その功徳、福運を消し、幸福への軌道を踏み外してしまうことがある。それは同志間の反目、諍いである。
 山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。
 誹謗とは、『そしる』ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善といって人に対するものです。
 御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉であり、いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(御書一三八二p)と、戒められている。
 怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。
 皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる
 ──そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」
 なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(同九七p)と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。