小説「新・人間革命」 2013年 1月15日 法旗 35
雪山童子の仏教説話で見落としてはならないのは、童子が身を投げ出した相手が、羅刹(鬼)の姿を現じていたということだ。
そこには、法を求めるうえで、相手の人格や、社会的な地位や立場などによって、紛動されることがあってはならないとの、戒めの意味が含まれていよう。
相手が、羅刹であろうが、誰であろうが、迷うことなく、一心不乱に法を求めて、突き進むなかに、成仏得道があるのである。
一方、「大智度論」には、乞眼の婆羅門(司祭階級)の説話がある。
舎利弗は自分の眼の一つを抜いて与えたが、婆羅門からは、感謝の言葉さえなかった。
それどころか、その眼の臭いを嫌って、唾をかけ、地に捨て、しかも、足で踏みにじったのである。
舎利弗は、愕然とした。?こんな人間を救うことはできない!?と、菩薩道の修行をやめてしまうのである。
自分の行為や実績に対し、相手や周囲がいかに評価し、賞讃してくれるか──それによって、張り合いをもち、頑張ろうとするのは人情といえよう。
また、健気に、懸命に努力している人に光をあて、讃え、励ましていくことは、リーダーの責任でもある。
しかし、たとえ自分が正しく評価されず、賞讃されることがなかったとしても、リーダーや周囲の人を恨んだり、意欲を失うようなことがあってはならない。
自分の功徳、福運を消し、成長を止めてしまうからだ。
仏道修行は『己心の魔』との戦いであるといえる。
『魔』はあらゆる手段を弄して、健気に信心に励もうとする人の意欲を奪い、心を破ろうとする。
時には『なんで自分ばかりが、こんなに苦労しなければならないのだ』との思いをいだくこともあるかもしれない。
だが、御本尊は、すべてご存じである。
生命の因果の理法に照らし、仏法のために苦労すればするほど、大福運を積んでいくのだ。