小説「新・人間革命」 2013年 1月22日 法旗41

羽生直一は、仕事では〝お客様へのきめ細かな対応〟を心がけてきた。学会活動でも、それを実践した。
 たとえば、日々の活動が忙しいと、病魔と闘っている人などへの激励は、後回しになりがちになっていると感じた彼は、そうした同志への激励の日を設けることにした。
 その日は、重点的に、入院中の人や自宅療養中の人を見舞ったり、高齢で体が不自由な人などを励ますことにしたのである。
 羽生のもとで、人材もたくさん育った。
 新入会者には、「行学の二道」の大切さを訴え、丹念な勤行指導を行うとともに、一緒に動いて、仏法対話の実践を教えてきたのである。
 羽生夫妻が地区部長、地区担当員をしていた時、地区の大多数の人が一級の闘士となった。
 彼らが所属する愛媛支部には、十余りの地区があったが、支部の弘教の半分以上を、彼らの地区で占めてしまったこともあった。
 羽生直一は、山本伸一から「松山を頼みます!」と言われて十年後の一九七三年(昭和四十八年)十一月、松山長の任命を受けた。
 名実ともに、松山の広宣流布の責任を託されたのである。以来彼は、ますます情熱を燃やし、大前進の牽引力となってきた。
 そして、伸一が羽生の自宅を訪れた、この七八年(同五十三年)一月には、直一は松山市を含む中予圏の指導長として、みさ子は本部指導長として活躍していたのである。
 羽生の家には、広々とした立派な和風庭園もあった。
 それは、諸会合に訪れるお年寄りをはじめ、人びとの幸せのために奔走する学会員に、少しでも心を和ませてもらいたいとの思いから、造ったものであるという。
 伸一が、地元の同志に代わって、丁重に御礼を言うと、羽生は語った。
 「とんでもないことです。頑なでお世辞一つ言えない私ですが、商売も軌道に乗っております。
 たくさんの功徳をいただきました。広宣流布のため、同志のために尽くせば、必ず守られることを実感しています。
 御礼、感謝申し上げるのは私でございます」