小説「新・人間革命」 勇将 21 2013年 3月8日
四国の五大学会の合同結成式で、長野栄太は山本伸一に尋ねた。
「ハンセン病で苦しむ人たちが多い国に渡って、患者を救いたいんです。
でも、すぐに行動すべきかどうか、迷っております」
「妙法の青年医師らしい心意気だね。しかし、決して焦ることはないよ。
当面は日本にいて、さらに医学の道を究め、しっかりと基礎を固めることが大事ではないかと思う」
長野は、この指導を胸に医師としての力を磨いた。
長野は、高松市に住み、船で島に通った。
彼がハンセン病の研究、治療に情熱を注ぐようになった背景には、両親の姿があった。
一家で最初に信心を始めたのは、母親であった。
やむなく、職を転々としたが、暮らしは貧しく、夫婦喧嘩が絶えなかった。
母は、学会員から、「あなたが変わらなければ、家庭は変わらないわ。
その自分を変えるための信心なのよ」と聞かされ、五六年(同三十一年)に入会した。
しばらくして父も信心し、夫婦で学会活動に励んだ。
班長、班担当員となった両親が担当したなかに、大島青松園で暮らす人たちがいたのである。
ハンセン病に対しては隔離政策が取られ、罹患した人たちは、人権を奪われたに等しい生活を余儀なくされていた。
社会には、ハンセン病は治らず、すぐに感染する病であるとの偏見があった。
無知は偏見を生み、偏見は差別を育てる。
長野の両親は、「最も苦しんでいる人を救わずして仏法はない!」と、足しげく大島に通った。
医師であった父は、ハンセン病の菌は感染力が弱いことをよく知っていたのだ。