小説「新・人間革命」 奮迅 45 2013年6月26日

ブロック強化の流れをつくるにあたり、山本伸一は東京ではなく、埼玉から始めようと思った。
 埼玉のもつ限りない未来性に、大きな期待を寄せていたからである。
 首都圏においては、東京の多摩地域をはじめ、埼玉、神奈川、千葉などが、ベッドタウンとして開発が進み、人口も急増していた。
 今後、その流れは、ますます進み、二十一世紀には、東京都区部周辺に、いくつもの新しい都市が誕生することは明らかであった。
 それは、創価学会にとっても、新しい時代を築く舞台が開かれることを意味する。
 そして、そうした地域に、創価人間主義の大連帯をつくり上げることができるかどうかが、広宣流布の未来を決することになる。
 伸一は、そのための本格的な取り組みを、まず埼玉の地から着手し、組織の最前線のリーダーであるブロック幹部のなかに、自ら飛び込んでいこうと決めたのである。
 伸一が出席することになった埼玉県婦人部のブロック担当員会を翌日に控えた三月六日のことである。
 彼は、この日の夕刻、学会の首脳幹部と懇談した。
 その折、埼玉の志木支部川越地区に、伸一が御書講義に通ったことが話題になり、幹部の一人が伸一に尋ねた。
 「先生の川越での講義を受講された方々は、『今なお、魂が打ち震えるような感動が蘇ってきます』『堂々とした、師子吼のような講義でした』と語っています。 先生は、どういうご一念で、講義をされたんでしょうか」
 言下に、答えが返ってきた。
 「周囲から見れば、堂々と、余裕綽々であるかのように見えたかもしれない。
 しかし、私は、背水の陣の思いで、真剣勝負で講義に臨んだんです。
 当時、志木支部というのは、小さな支部であり、東京の各支部と比べ、活動も大きな遅れをとっていた。
 戸田先生は、そのなかの一地区をもり立て、埼玉から広宣流布の新たな旋風を起こそうと、私を、先生の『名代』として御書講義の担当者に任命し、派遣された。その時、私は二十三歳でした」