小説「新・人間革命」 奮迅 46 2013年6月27日

山本伸一が、御書講義の講師として川越地区に派遣されたのは、戸田城聖が第二代会長に就任して約五カ月後の、一九五一年(昭和二十六年)九月二十五日のことであった。
 以来、約一年五カ月にわたって、伸一は川越に通う。
 その間に、「治病大小権実違目」「佐渡御書」「日厳尼御前御返事」「聖人御難事」「如説修行抄」「松野殿御返事」「生死一大事血脈抄」「三大秘法禀承事」「阿仏房尼御前御返事」「日女御前御返事」などの講義を行っている。
 伸一は、懐かしそうに語っていった。
 「戸田先生は、会長就任の席で、生涯の願業として、会員七十五万世帯の達成を発表された。
 また、大教学運動の要となる講義部員も任命され、私も、その一人となった。
 当時、幹部は、先生が会長になられたことで歓喜し、折伏・弘教に力を注ぎはしたものの、本気になって先生の願業を成就し、なんとしても、師と共に広宣流布の礎を築こうという自覚は乏しかった。
 先生は、この年の八月末、私に言われた。
 『このままでは、七十五万世帯の達成には、何十年、何百年とかかってしまうことになりかねん。特に埼玉方面は低迷している。
 そこで、志木支部の川越地区の講義を担当し、御書を根本に広宣流布の使命を自覚させ、立ち上がらせてほしい。
 支部の建設といっても、地区を強くすることから始まる』」
 五一年(同二十六年)当時、各支部は数地区から十数地区で構成され、地区が最前線組織であった。
 大きな地区の場合は、地区に幾つかの班を設けて活動していたが、学会として正式に、支部―地区―班―組という組織の布陣が整うのは、翌五二年(同二十七年)の一月からである。
 そして、戸田は伸一に、こう語った。
 「地区という小さな単位ではあっても、そこから、学会全体へと信心の炎は燃え広がっていく。
 都心から離れた埼玉の川越に、模範の地区をつくることができれば、東京も大きな触発を受け、大奮起するだろう」