若芽 44 2013年 12月12日

本川雅広の一家の生活は、困窮を極めた。
贅沢な食事など、いっさい口にすることはなかった。彼は、「焼き肉」といえば、たくさんのモヤシを焼いて食べるものと思っていた。
また、衣服のほとんどは、親戚などからのもらい物で過ごした。
本川の両親は、懸命に働き、家計を極限まで切り詰めて、中学、高校、大学と、彼に創
価一貫教育を受けさせた。雅広より二歳下の妹も、高校と大学は、創価の学舎に通わせた。
「どんなに貧しくても、山本先生の創立した学校で、創価の人間教育を受けさせたい」との思いからであった。
雅広は、大学時代、ラテンアメリカ研究会に入り、スペイン語を猛勉強し、アルゼンチンのブエノスアイレス大学に留学した。
卒業後は、大手翻訳会社に勤務したあと、自ら翻訳会社を設立。世界平和を願い、文化の交流に寄与していくことになる。
山本伸一は、東京創価小学校の開校以来、逆境に立たされた児童がいると、自分の生命を削る思いで励ましてきた。
最も苦しんでいる子どもの力にならずして、教育の道はない。人間の道はない。
開校から七年余りが過ぎた一九八五年(昭和六十年)七月十七日、伸一は創価学園の栄光祭に出席した。
その折、小学校三年の林田新華と、弟で一年の弘高を呼び、語らいの機
会をもった。
前日、母親の林田千栄子が他界したことを聞いたからだ。母親は、かつて、
学会本部の健保組合健康管理相談室の看護婦(現在の看護師)をしており、伸一も、よく知っていた。
父親の林田一徳は、公認会計士として社会の第一線で活躍していた。
母親は、前年の暮れ、直腸に癌が発見された。一カ月後、手術をしたが、周辺にも浸潤
が見られ、病巣を取り切ることはできなかった。医師は「余命三カ月」と告げた。
母親は退院し、術後六カ月を経た時、再び入院した。幼い子どもたちにとっても、過酷
な宿命の嵐であった。しかし、それに負けない強さをもたずして幸福はない。