小説「新・人間革命」 激闘32

 第六天の魔王は、智慧(ちえ)の命を奪うところから、「奪命(だつみょう)」といわれる。また、「他化自在天(たけじざいてん)」ともいって、人を支配し、意のままに操(あやつ)ることを喜びとする生命である。

 その結果、人びとの生命は萎縮(いしゅく)し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽(め)は摘(つみ)み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。

 それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を具(そな)えた尊厳無比(そんげんむひ)なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。
 つまり、両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩(せめ)ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈(しれつ)な戦いとなる。この魔性の制覇(せいは)は、仏法による以外にないのだ。

 では、魔軍の棟梁(とうりょう)である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。
 十軍は、種々の煩悩(ぼんのう)を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹(りゅうじゅ)の「大智度論(だいちどろん)」には、「欲(よく)」「憂愁(うしゅう)」「飢渇(きかつ)」「渇愛(かつあい)」「睡眠(すいみん)」「怖畏(ふい)」「疑悔(ぎけ)」「瞋恚(しんに)」「利養虚称(りようこしょう)」「自高蔑人(じこうべつじん)」とある。

 山本伸一は、研修会で、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。
 「第一の『欲(よく)』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破(やぶ)られていくことです。
 第二の『憂愁(うしゅう)』は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励(はげ)めない状態です。
 第三の『飢渇(けかち)』は、飢(う)えと渇(かわ)きで、食べる物も、飲む物もなくて、何もできないことです。学会活動しようにも、空腹で体を動かす気力もない。交通費もない。だから、やめてしまおうという心理といえるでしょう。
 第四の『渇愛(かつあい)』は、五欲といって、眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して起こる、五つの欲望です。美しいものに心を奪(うば)われたり、よい音色、よい香り、美味、肌触りのよい衣服などを欲する心です。それらを得ることに汲々(きゅうきゅう)として、信心を捨ててしまうことです」

(2014年 4月28日付 聖教新聞