求道5  2014年6月18日

斉間恵は、女子部の先輩と弘教にも歩いた。
仙台から福島県の郡山まで行き、結核で寝たきりの若い女性に、涙ながらに仏法を語った。
だが、理解が得られず、自らの非力を痛感したこともあった。
また、ある大雨の日、先輩と一緒に友人の家へ仏法対話に出かけた。長い山道を、破れた傘を差して歩いた。膝から下は泥だらけになっていた。
その姿を目にした友人は「ここまでして私のために、仏法の話をしに来てくれたのか」と感動し、入会を決意した。
学会活動では、悔しい思いをすることもある。
しかし、友が発心した時の喜びもまた、限りなく大きい。
青年時代の、その体験が、生涯にわたる信仰の堅固な礎となる。
信心を始めて一年ほどしたころ、母が体調を崩した。病院へ行くと、癌と診断された。
「余命一年」と言う。母の実母が亡くなった時と、母は同じ年代であった。宿命を感じた。
「お母さんも、信心をしようよ。仏法の力で、宿命を乗り越えていこうよ」
彼女の懸命な訴えに、母は入会した。
母子で真剣な唱題が始まった。母は、歓喜が込み上げ、生命力がみなぎるのを感じた。
そして、容体は好転し、日ごとに元気になっていった。医師は、病状の変化に首をかしげた。精密検査をすると、癌はなかった。
母子で手を取り、感涙にむせんだ。
最初の診断が誤りであったのか。正しければ、なぜ、健康を回復したのか。なぜ、癌がなかったのか──医学的なことはわからなかった。
しかし、ともかく窮地を脱したのだ。
これが恵の実感した初信の功徳であった。
恵が山本伸一と身近に接したのは、一九五五年(昭和三十年)九月、東京・世田谷区の日大グラウンドで行われた、第二回青年部体育大会「若人の祭典」でのことである。
彼女は東北の地から、この体育大会に参加し、競技に出場した。その競技は、ピストルの音を合図に走りだし、途中に置かれた紙を手にし、そこに書かれた指示通りに行動し、ゴールするというものであった。