小説「新・人間革命」広宣譜39 2015年1月7日

山本伸一は、旭日・千葉の同志が、地域に人間共和の都を築き、二十一世紀の「広布のモデル県」をつくり上げていくことを、強く念願していた。
そのためにも、皆が、新しい使命に目覚め立つ、出発の歌が必要であると思っ
たのである。
また、千葉県では、以前から、宗門の僧による学会への攻撃が執拗を極め、とどまるところを知らなかった。
北総地域の寺では、住職が御講などの席で、「学会は謗法である。学会では成仏できない」と批判し続け、学会員の通夜には行かないと言いだしていた。
信心していない親戚からは、「学会の信心をやめろ」と言われ、涙ながらに苦しい胸のうちを幹部に訴える人があとを絶たなかった。
安房地域では、まだ会館がないために、寺を借りて会合を開くことがあった。
会合では「人間革命の歌」を合唱した。
その時には、広宣流布誓願の決意を固め合う意味から、皆が立って御本尊に向かい、手拍子を打たずに合唱するようにしていた。
それを見ていた、寺の住職は、学会の幹部に、こう言い放った。
「歌詞に『君も立て 我も立つ』とある。御本尊に向かって『君も立て』とは何事か。御本尊に命令することになる。
『人間革命の歌』を御本尊に向かって歌うのは間違いだ」
この一節は、広宣流布の使命に生きる同志が、互いに決意を鼓舞し合い、前進していくための呼びかけであることは自明である。
住職の指摘は、支離滅裂な言いがかり以外の何ものでもなかった。
皆、強い憤りを覚えた。
この住職は口を開けば、「学会は謗法だ。謗法がどんなに弘まろうと広宣流布ではない」などと発言していた。
しかし、住職自身が折伏に邁進し、広宣流布に励む姿を見た人はいなかった。
つまり自らは修行の根本である折伏もせず、命がけで弘教に挺身してきた学会員を謗法と罵り、広宣流布への誓いを込めて合唱することは間違いだというのだ。
広布破壊の魔の働きであると見破った同志たちは、「断じて負けまい」と誓い、意気揚々と学会活動に励んできた。