小説「新・人間革命」広宣譜44 2015年1月13日

吉原力は、こう自分に言い聞かせた。
「仕事が終わったら、そのまま学会活動に出かけよう。会合のない日は、仏法対話か個人指導に回るんだ」
当時は、タテ線の時代であり、部員は、都内から東京近県にかけて点在していた。就職したとはいえ、給料は決して高くはない。
生活費を切り詰め、電車賃を捻出し、一軒一軒、部員の家を訪ねた。
吉原が山本伸一に初めて個人指導を受けたのは、入会二年後の、一九五九年(昭和三十四年)十二月のことである。
彼は男子部の班長になっていた。
しかし、信心が惰性に流され、学会活動に身が入らず、仕事も不調続きであった。そんな状態から脱却したいと学会本部を訪れ、伸一と会ったのである。
そのころ、伸一は、学会でただ一人の総務として理事長を支え、実質的には全学会の指揮を執り、同志の激励に奔走していた。
「そんな山本総務に、時間を取らせては申し訳ない」と思いながらも、こう尋ねた。
「信心が空転している時は、どうすればいいでしょうか」
伸一は、確信を込めて言った。
「題目です。題目を唱える以外にないよ。
祈った人が勝つ──これが仏法です。
困ったことがあったら、また、私のところへいらっしゃい」
簡潔な指導であったが、吉原は、温かさを覚え、勇気が湧くのを強く感じた。
彼は、この指導を無にすまいと思った。
日蓮大聖人は、「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ」(御書九九七p)と仰せである。
南無妙法蓮華経と題目を唱え抜いていくならば、わが身に「元品の法性」が厳然と光り輝き、すべてに打ち勝つ自身の境涯が確立される。
そして、自分も人びとも幸福へと導く、梵天・帝釈の働きが具現されるのである。
唱題に励む人は強い。「いま、われわれは凡夫です。
凡夫であるけれども、ひとたび題目の功力をうければ仏の姿になります」(注)とは、恩師・戸田城聖の魂の叫びである。