小説「新・人間革命」常楽16 2016年 1月20日

法華経を捨てよ」と迫る平左衛門尉頼綱に対して、熱原の農民信徒は、声も高らかに唱題を響かせた。それは、不惜身命の決意の表明であった。
激昂した頼綱は、次男である十三歳の飯沼判官資宗に、蟇目の矢で農民たちを射させた。
この矢は、桐材を鏃とした鏑矢で、当たれば体内の悪魔が退散するとされていた。音を発して飛び、犬追物などにも使われた。
その矢が迫ってくる恐怖、打ち当てられた痛みは、いかばかりであったか。
農民信徒は、過酷な拷問に耐え抜いた。
遂に頼綱は、十月十五日、信徒の中心的な存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎を斬首した。
しかし、それでも農民たちは、一人として信仰を捨てようとはしなかった。毅然として唱題し続けたのだ。
彼らの不屈の信仰に、頼綱は狼狽したにちがいない。
結局、処刑は、三人までで、あきらめざるをえなかった。残った十七人は、追放処分となっている。
一方、日秀は熱原郷から、一時、下総(千葉県北部など)に移るが、その後も、日興上人と共に弘教に奔走するのである。
日蓮大聖人の門下は、日昭などの僧、富木常忍四条金吾などの武士、そして、武士の妻をはじめ家族へと広がってきた。
しかし、一閻浮提広宣流布を進め、万人成仏の教えを現実のものとしていくには、農民などの民衆が、法華経の教え通りに諸難を乗り越える、不退の信心を確立しなければならない。
彼らの多くは、読み書きもできなかったであろう。
その民衆が純真な信心で、横暴な権力の迫害にも屈せず、死身弘法の実践を貫き通したのである。
つまり、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を受持し、大聖人と共に広宣流布に戦う偉大な民衆が出現したのだ。
大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書一三六〇p)と仰せである。
民衆を単に救済の対象とするのではなく、民衆が人びとを救済する主体者となる。ここにこそ、真実の民衆仏法がある。