小説「新・人間革命」常楽17 2016年 1月21日

熱原の農民信徒の生き方、振る舞いは、信心の究極を物語っている。
信心とは、学識や社会的な地位、財力などによって決まるものではない。
それは、法難という大試練に直面した時、決して怯むことなく、敢然と立ち向かう勇気、決定した心である。
そして、今こそ「まことの時」ととらえ、師の言葉を思い起こし、深く心に刻んで、ひとたび決めた道を貫き通す信念である。
また、私利私欲、保身への執着に縛られることなく、法のために一身をなげうつ覚悟である。
さらに、一点の疑いも、迷いもない、仏法の法理への強い確信である。
反対に、退転していく者の心の姿勢を、日蓮大聖人は、次のように喝破されている。
「をくびやう(臆病)物をぼへず・よく(欲)ふか(深)く・うたがい多き者どもは・ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけそら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ」(御書一一九一p)
ここで仰せの「物をぼへず」とは、大聖人が「つたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(同二三四p)と指摘されているように、信念を貫き通すのではなく、師の教えを忘れ、翻意していく弱さ、愚かさを意味する。
ところで、「三沢抄」には、第六天の魔王が眷属に、「かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさ(諫)め或はをど(威)してみよ」(同一四八八p)と命じたとある。
熱原法難でも、大聖人門下であった大進房、三位房の僧や、大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱らが退転し、行智一派に与して、害する側に回っている。
まさに、この原理通りといえよう。
本来あり得ないと思われる転倒した事態や意表を突く状況を生じさせ、信心を攪乱させる。
そこに第六天の魔王の狙いがある。
ゆえに広宣流布の戦いに、油断があってはならない。戸田城聖は詠んだ。
「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」と。