小説「新・人間革命」常楽18 2016年 1月22日

迫害を受けた熱原の農民信徒、なかでも神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟の殉教は、幸福を確立するためという信仰の目的とは、対極にあるように思えるかもしれない。
生命は尊厳無比であり、守るべき最高の宝である。
では、なぜ日蓮大聖人は、「かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ」(御書一五六一ページ)と仰せになっているのか。
人は、いつか必ず死を迎える。
大聖人御在世当時、多くの人びとが、飢饉、疫病、戦禍等によって他界し、また、蒙古の襲来で命を失うことも覚悟せねばならぬ状況であった。
命は最高の宝であるが、露のごとくはかない。なればこそ、その命をいかに使うかが大事になる。
ゆえに大聖人は、尊い命を「世間の浅き事」のために捨てるのではなく、万人成仏の法、すなわち全人類の幸福を実現する永遠不変の大法である法華経を守り、流布するために捧げよ――と言われたのである。
それによって、「命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う」(同一二九九ページ)と仰せのように、成仏という崩れざる絶対的幸福境涯を確立することができるからだ。
生命は三世永遠である。正法のために今世で大難に遭い、殉教したとしても、未来の成仏の道が開かれるのである。
また、「佐渡御書」では、大難に遭うことで過去遠遠劫からの悪業を、今世において、すべて消滅できるとも言われている。
「不惜身命」「死身弘法」の決意に立った境地とは、決して悲壮なものではない。泰然自若とした悠々たる喜びの境地である。
大聖人は竜の口で斬首されようとした時、涙する四条金吾に、「これほどの悦びをば・わらへかし」(同九一四ページ)と言われている。
さらに、極寒の流刑地佐渡にあって、「未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず」(同一三六一ページ)と記されている。
勇んで広宣流布に生涯を捧げる覚悟を定める時、わが生命は、御本仏である日蓮大聖人に連なり、何ものをも恐れぬ大力が涌現し、仏の大歓喜の生命が脈打つのである。