小説「新・人間革命」 清新56 2016年年8月19日

霧島連山は冬の雲に覆われ、薄日が差したかと思うと、雪がちらつくといった、安定しない天気であった。
一九七九年(昭和五十四年)二月一日、山本伸一は鹿児島県の九州研修道場にい
た。三日には鹿児島を発ち、香港を経てインドを公式訪問することになっていたのである。
伸一は、五年前の七四年(同四十九年)の二月と十月に、シルベンガダ・タン駐日インド大使と会談し、日印の友好・文化交流について語り合った。
その二度の会談で、大使からインド訪問の要請があったのである。
そして、翌七五年(同五十年)二月、在日インド大使館を通じて、インド文化関係評議会(ICCR)から正式に招待したい旨の書簡が届いた。
さらに十二月、タン大使の後任であるエリック・ゴンザルベス大使と伸一が会談した際にも、あらためてインドへの公式訪問を求められたのである。
伸一は、インド側の友情と誠意に応えようと準備を進めてきた。そして、この年二月の訪問が実現の運びとなったのであった。
インドは、中国と並んで巨大な人口を擁する大国であり、宗教も、八割を占めるヒンズー教のほか、イスラム教、キリスト教シーク教ジャイナ教、仏教などがある。
また、多民族、多言語で、インドの憲法では、十四言語(当時)を地方公用語として認めている。
その多様性に富んだ、世界連邦ともいうべきインドの興隆は、人類の平和の縮図となり、象徴になると伸一は考えていた。
また、何よりもインドは仏教発祥の国である。そこに彼は、大恩を感じていたのである。
ゆえに、民間人の立場から、日印の文化交流を強力に推進する道を開き、インドの発展に貢献しようと決意していたのだ。
インドの生んだ詩聖タゴールは訴えた。
「人類が為し得る最高のものは路の建設者になることであります。しかしその路は私益や権力の為の路ではなくて、人々の心が異なれる国々の兄弟達の心に通うことの出来る路なのであります」(注)
 
小説『新・人間革命』の引用文献
注 タゴール講演集『古の道』北?吉訳、プラトン社=現代表記に改めた。