【第15回】 師弟共戦の勝利道 2017年1月25日

 
広宣流布の大願へ心勇みて
快活な対話を 新たな自分の二月闘争を!
 

朝夕に  宝友の健勝   祈る日日   諸天よ護れや  地涌の舞をば  

 
日蓮大聖人は、佐渡(さど)や身延(みのぶ)で厳しい冬を堪(た)え忍(しの)ばれた。
「北国の習(ならい)なれば冬は殊(こと)に風はげしく雪ふかし」(御書1052ページ)、「雪つもりて山里路(やまざとみち)たえぬ」(同1554ページ)等と仰せの通りだ。
その中でも、訪ねてきた門下を最大に励まされるなど、麗(うるわ)しい師弟の交流は絶えなかった。御書に厳(げん)と記されている。
我ら創価家族も、風雪に負けず、励まし合って前進していきたい。
特に聖教新聞の配達でご苦労をおかけする尊き「無冠」の皆様の絶対無事故とご健康を、更に強盛に祈ってまいります。
 
今、「世界広布新時代」の朝を迎えた。その先頭を、「午前八時の太陽」の勢いで、地涌の青年たちが走り、広布拡大をリードしてくれている。
 「若い世代のあいだに、責任感と率先して物事を行なう気構えとが、今や働きつつある」――戦後まもなく、こう語って青年に信頼を寄せたのが、大科学者アインシュタイン博士であった。
 
博士は95年前(1922年)に日本を訪れ、来日最初の講演会を慶応大学で行った。この記念すべき講演を、22歳の戸田先生は牧口先生と一緒に聴講され、生涯の誇りとされていた。
博士が旅の最後に訪れ、美しい風光を喜び讃えたのは、福岡の門司(現・北九州市)である。
その九州で今、皆が青年の心で「先駆」の使命を担い、拡大に挑んでいる。頼もしい限りだ。
アインシュタイン博士は、こんな言葉も残している。「高貴な思想と行為に導きうるのは、偉大でかつ純粋な個性の実例のみである」と。 

率先垂範(そっせんすいはん)の「実例」がありてこそ、新たな価値創造の波動も広がる。 我らの掲げる「青年の拡大」も、先駆の「一人」から始まるのだ。

 

報恩の心で立つ  「いざ往かん  月氏の果まで  妙法を  拡むる旅に  心勇みて」

 
日蓮大聖人の立宗700年の大佳節に当たる1952年(昭和27年)の1月、戸田先生が詠(よ)まれた和歌である。
当時の学会は、およそ6,000世帯。しかし、恩師の眼は、日本を遙(はる)かに超え、東洋広布、さらに世界広布の壮大なる未来を見つめておられた。
妙法流布の使命に生きる人生が、どれほど尊貴であるか。全同志にその福徳と歓喜を知ってもらいたいと、先生は念願されていたのだ。
だが、残念ながら、1月の弘教も、どの支部とも伸び悩んでいた。
先生は“このままでは広宣流布はできない”と嘆(なげ)かれ、24歳の私を蒲田支部支部幹事に抜擢(ばってき)された。希望の突破口を開く使命を青年に託(たく)してくださったのだ。
 
1月29日、大田区・鵜(う)の木の集会所で、蒲田支部の緊急の会合を行った。私には、新出発に際し、同志と共有したい誓いがあった。

それは―― 我々はなぜ、この信心に巡(めぐ)り合えたのか。 末法の御本仏・日蓮大聖人が不惜身命(ふしゃくしんみょう)で妙法を弘(ひろ)め遺(のこ)してくださったゆえである。

今日では、恩師が戦時下の獄中闘争を勝ち越え、広布の大願に一人立たれたゆえである。
その奇(き)しき縁(えにし)に思いを致(いた)せば、報恩感謝(ほうおんかんしゃ)の念が込み上げる。時あたかも大聖人の御聖誕の月、恩師の誕生の月を迎える。
であれば、この2月、我らは広布拡大の勝利をもって、お祝いしようではないか!――と。 

会場に戸田先生の姿はなかった。それでも集った弟子たちは、師がここにおられるが如く、前進を誓い合ったのである。

 

「一人」に全力で

私は懸命だった。私と同じ心で、壮年も婦人も立ち上がってくれた。自らの折伏の挑戦が、師匠の生涯の願業である75万世帯の拡大に直結することを、皆が自覚し始めたのだ。
具体的には、師が示された通り、当時の組織の最小単位の「組」を軸に、「組」を盛り立て、折伏を推進していった。
つまり、一切の焦点を少人数の語らい、一対一の対話、心通う座談会に定めたのだ。ゆえに―― 

まず、真剣に祈ろう! 近隣を大切に、身近なつながりから勇気と真心の対話を広げていこう!

自信満々、生き生きと信心の体験を語ろう! この対話の最前線こそ広布の主戦場だ。ゆえに全精魂を注ぎ、全力を尽くすのである。

勇気を出して、一人の友に会う。相手の幸福を祈り、誠実に、情熱込めて語っていく。その一人立つ挑戦が、己心の壁を破り、友の心を動かす。
ここに、大聖人が「声も惜(おし)まず」と言われた随力弘通(ずいりきぐつう)の実践がある。
 
大聖人は、四条金吾を讃え語られた。
 「貴辺(きへん)又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人(しょにん)にかたり給ふ是(こ)れ豈流通(あにるつう)にあらずや」(御書1117ページ)と。
師と心を合わせ、自分が縁を結んだ人びとに正義を語っていくことが、流通すなわち世の中に妙法を流れ通わせるのだ。
 

善き「縁」を宝に

蒲田支部には、当時、約100の「組」があった。私は、中心者の組長など最前線に立つ方々を、一軒一軒訪問し、親しく語り合い、励ますことを重要な日課としていた。
その中に戦前に入会されていた一家があった。組長の壮年は、牧口先生の折伏である。
牧口先生は、家族の信心に猛反対だった壮年を訪ね、諄々(じゅんじゅん)と対話された。
「学会は人間の幸福と社会を善くするためにあるのです」と。その「立正安国」の大確信に触れて、壮年は発心した。
先師が縁し、種を蒔(ま)かれた方を、孫弟子の私が励ますという不思議なご縁である。ご一家は目標を遙(はる)かに上回る弘教を推進してくださった。
一つ一つの縁を「仏縁」としゆく対話と弘教の喜びは勇気の波動となり、誰も彼もが「やらんかな!」の意気を爆発させた。
どんどん功徳爛漫の体験が生まれ、新たな対話の勇者たちが陸続と誕生したのだ。
そして、遂に壁を破る弘教201世帯――大田区内はもちろん、神奈川の川崎、東京の目黒、品川など各区に、更に首都圏、全国まで広布の陣列は広がっていった。
人と人の縁は、自分が考えるよりも深く広い。家族・親戚の縁、近隣・地域の縁、仕事や学校の縁……大切に結んだ善き縁が、また新たな宝の縁をつないでくれる。 
師弟共戦と異体同心で「広宣流布の大願」を成就しゆく勝利道が、晴れ晴れと開かれたのである。
 
この1952年の2月1日、大阪支部長心得(こころえ)として関西入りしたのが、蒲田支部出身の我が友・白木義一郎君であった。
戸田先生が、「大阪にも一日も早く支部を作るべきです」との私の進言に応えて、手を打ってくださったのである。
我らが“常勝関西”の起点も、「二月闘争」と軌(き)を一(いつ)にしているのだ。
関西との宿縁(しゅくえん)は深厚(じんこう)である。この1月25日で、横暴な権力の弾圧による「大阪事件」の無罪判決から55年となる。
共に祈り戦ってくださった同志、とりわけ婦人部の関西魂は変わらない。

今再び、威風堂々たる「折伏の関西」の大行進を嬉しく見守っている。

 

火ぶたは青年が

広宣流布のため、立正安国のため、「師弟共戦」の心で走った天地には、宝友との「今生人界(こんじょうにんかい)の思出」が輝いている。
男子部の第一部隊長として奔走した、墨田・江東・江戸川など城東方面。支部長代理として前進を指揮した、文京・豊島など有縁の各地。
夏季指導の荒川、総ブロック長を務めた葛飾(かつしか)もそうだ。
本陣・大東京の勝利が日本全国の勝利を開くゆえに、私は東京中を何度も何度も駆け巡ってきた。愛する同志の幸福と安穏を祈り、国土世間の変革を念じながら!
 
「二月闘争」から65星霜――今や東京中、日本中、そして世界中で、後継の青年たちが「新時代の二月闘争」の火ぶたを切ろうとしている。
日蓮大聖人は、東京の同志の大先輩たる池上兄弟に、三障四魔(さんしょうしま)に打ち勝つ闘魂(とうこん)を注がれた。 
「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆ(弛)む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし」(同1090ページ) 
さあ、感激の同志よ! いよいよ勇気を奮い起こし、いよいよ声を励ましながら、朗らかに前進しようではないか! 
 

青年の   生命で開く   新時代  平和の柱ぞ  我ら創価

(随時、掲載いたします)
 
アインシュタインの最初の言葉は「世界政府を目指して」(『晩年に想う』所収)市井三郎訳(講談社)、二つ目は『アインシュタイン選集3』井上健中村誠太郎編訳(共立出版)から。