小説「新・人間革命」 大山 二十七 2017年2月2日

鄧穎超は、念を押すように言った。
「一歩も引いてはいけません!」
彼女の顔に笑みが戻った。
「前も敵、後ろも敵」という断崖絶壁のなかで、何10年もの間、戦い続けてきた人の言は重たかった。
進退は自分が決めることではあるが、山本伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。
彼は、鄧穎超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
伸一は、彼女との約束と日中友好の誓いを果たすために、翌年の1980年(昭和55年)4月、第5次訪中へと旅立った。
この時、鄧穎超は、伸一夫妻を北京市中南海にある西花庁に招いた。彼女が周総理と一緒に、長い歳月を過ごした住居である。
伸一たちが通された応接間は、人民大会堂が完成するまで、総理が外国の賓客と会っていた部屋であるという。
さらに、彼女は、「ぜひ、ご覧いただきたいと思っていました」と言って、中庭を案内した。
海棠の花が淡い桃色のつぼみをつけ、薄紫のライラックの花が芳香を漂わせていた。
庭を散策しながら友誼の語らいは続いた。
伸一が次に訪中したのは、84年(同59年)6月のことであった。
鄧穎超は人民政治協商会議の主席として人民大会堂に伸一を迎え、中日の青年交流をさらに拡大していきたいとの希望を語った。
5年後の89年(平成元年)6月4日、中国では第2次天安門事件が起こった。
以来、欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第3次円借款の凍結を決めるなど、中国は国際的に孤立した。
伸一は思った。
結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。
それが人間の信義であり、友情ではないか! 窓が開かれていてこそ対話も可能となる。