小説「新・人間革命 雄飛 六十三 2017年8月28日

チーホノフ首相と会見した十四日夜、山本伸一は、宿舎のホテルで、お世話になった関係者をはじめ、各界の来賓を招いて、答礼宴を開いた。
そして翌日、モスクワ市内にあるトルストイの家と資料館を訪れた。
十九世紀に建てられたまま保存されている文豪の住まいは、木造二階建てで、床はギシギシと軋んで、往時を偲ばせた。
彼は晩年の十九年間を、この質素な家で過ごした。
書斎には、テーブル、イス、ペン立て、インク壺などが、当時のままの状態で置かれていた。
彼は、ペチカ(暖炉)の薪割りも自分でした。その時に使った前掛けも展示されている。
この家で、最後の大作である『復活』や、数々の名作が誕生したのだ。
さらに一行は、資料館に足を運んだ。
天井の高い、重厚な歴史を感じさせる建物には、トルストイの小学生時代の作文や、終生、書き続けた日記、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の原稿、彼の彫像や肖像画などが展示されていた。
なかでも伸一の目を引いたのが、検閲された原稿の隣に置かれた、緑色のガラス製の文鎮であった。
そこには多くの署名とともに、トルストイを絶讃する言葉が焼き付けられていた。
ガラス工場の労働者が贈ったものだ。
──「あなたは時代の先駆者である多くの偉人達とその運命を同じになさいました」
「ロシアの人民はあなたを自分らの尊く慕わしい偉人と数えて、永遠にこれを誇りとするでございましょう」(注)
トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。
それゆえに、彼の著作は厳しい検閲を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。
だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
目覚めた民衆が聖職者の欺瞞を見破り、真に民衆のため、人間のための宗教を求めたのだ。民衆の英知は、宗教を淘汰していく。
 
小説『新・人間革命』の引用文献
注 ビリューコフ著『大トルストイ3』原久一郎訳、勁草書房