羅什の舌焼けず

 羅什三蔵は、七歳のときに出家し、諸国を遊歴して大乗経を学びました。特に法華経を、師・須梨耶蘇摩大師より 「仏日西に隠れ遺光東北を照らす玆(こ)の典東北諸国に有縁なり汝慎(つつし)んで伝弘せよ」(399P) と、付属を受けました。天竺より東北諸国は日本になります。

 その後、後秦王・姚興に迎えられて長安に入り、国師の待遇を得て、多くの訳経に従事しました。
 『撰時抄』 に次のように記されています。

 羅什三蔵がいうには 「自分が中国の一切経を見るのにみな原本の梵語とは異なっている。どのようにして、このことを世間の人にはっきり分からせようか。ただし一つの大願があり、自分の身体は妻を帯して不浄にしているが、舌ばかりは清浄にして仏法に妄語はしないと定めた。自分が死んだら、必ず焼きなさい。その時に舌が焼けるならば、自分の訳した経を捨てなさい」 と、常に高座で説法していた。

 当時の人は、これを聞いて、上一人より下万民にいたるまで願っていうには 「願わくは羅什三蔵より後に死んで舌の焼けないのを見たいものだ」 といっていた。終に羅什の死なれた時、いわれた通り焼き奉ったが、不浄の身はみな焼けて灰となり、御舌ばかり火の中に青蓮華を生じて、その上にあった。五色の光明を放って夜は昼のごとく輝き、昼は太陽の光を奪うほどであった。

 このような不思議があったればこそ、ほかの人々の訳したいっさいの経々は軽んぜられ、羅什三蔵の訳された経々が重んぜられ、殊に重要な羅什訳の法華経が、やすやすと漢土にひろまったのである。(268P・通解)


 私はこの物語を初めて聞いたとき、この様なことが事実として有るものかと思いました。しばらくして、羅什訳の法華経が、いちばん釈尊の正意を伝えた名訳である証明であると思いました。

 そもそも釈尊は、妙法蓮華経という語は発していません。 「梵語には薩達磨(サダルマ) 芬陀梨伽(フンダリキヤ) 蘇多覧(ソタラン) と云う、此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり、蘇多覧は経なり」(708P)  とあります。

 このような絶妙な名訳は、羅什三蔵の智慧は勿論のこと、表意文字の漢字があったればこそ、のことだと思います。そして数多くの経典の中で 「妙」 の一字のあるのは 妙法蓮華経 のみです。

 この 「妙法蓮華経」 から天台大師は、一念三千の珠を取り出し、日蓮大聖人は、七文字の法華経(御本尊) として、我ら末代幼稚の頸に懸けさして下さいました。

 たったこの七文字の 「南無妙法蓮華経」 の中に、宇宙の根源の法をはじめ、一切の諸法が包含されています。ゆえに、南無妙法蓮華経と唱題することによって、衆生の身中にあって無明に覆われ、固く閉ざされた仏性を、開くことが出来るのです。

 唱題行にとって大事なことは、リズムと言おうか、本当に口ずさみ易い、心地よい音律でなければなりません。表音文字では、こうまでうまく簡潔に訳せないと思います。この点、南無妙法蓮華経ほど、理にかない・音にかない・人々に勇気と希望を与える音声はほかにありません。

 いまやSGIの活動によって、世界192カ国に発展し、民族・言葉の違いを超えて、ともに同じく “南無妙法蓮華経 の音声が響き渡っています。この状況こそ、羅什の御舌の火中にあって、青蓮華の上で五色の光明を放つお姿そのものではないかと思います。