鑑真と羅什

 『法華経見宝塔品第十一』 で釈尊、「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏の前に於いて 自ら誓言を説け」 と、このような趣旨を3回にわたって勧め命じました。これを 「三箇の鳳詔(勅宣)」 と言います。

 これを受けて 『勧持品第十三』 で、八十万億那由佗の菩薩たちは、「唯願わくは 慮(うらおも)いしたもう為(べ)からず 仏の滅度の後の 恐怖悪世の中に於いて 我等当に広く説くべし」 と、十方世界の弘通を決意した。そして如来滅後に三類の強敵があろうとも、「我身命を愛せず 但無上道を惜しむ」 との誓願を発したのである。

 この三類の強敵を説いた文を 「勧持品の二十行の偈」 と言います。 日蓮大聖人は 「身・口・意」 の三業をもって、この勧持品の二十行の偈を読まれ、法華経身読の末法の御本仏としての御確信に立たれました。

 三類の強敵と言えば地涌の菩薩を思い出しますが、迹化の菩薩たちも地涌の菩薩に劣らず、仏法東漸のために命を賭して戦いました。その例を、鳩摩羅什と鑑真について述べて見たいと思いました。

 鳩摩羅什は、七歳の時、母と共に出家し、須利耶蘇摩大師より法華経を授かる時 「仏日西山に隠れ遺耀(いよう)東北を照らす、玆(こ) の典東北の諸国に有縁なり、汝慎(つつし)んで伝弘せよ」(71P) との付嘱を受けた。

 十二歳の時、亀茲(きじ)国に帰り大乗仏教を弘めた。その名声は中国にも及んでいて、前秦王符堅は羅什三蔵を得るため、呂光将軍に七万の兵を与えて亀茲国を討たしめた。呂光は長安への帰路、符堅の死を知り、姑臧(こぞう)に後涼国を建てた。羅什三蔵も此処に十六年在住し、この間に漢語を完璧に自分のものとした。

 やがて後秦王姚興(ようこう)は、六万の兵を派遣して後涼国を討ち、羅什三蔵を獲得した。こうしてようやく長安に入ることが出来た。羅什・五十二歳の時であった。

 五胡十六国時代は、各国が覇権を争った戦乱の時代でした。羅什の長安への道は、戦乱の中で翻弄(ほんろう)され、拉致され他動的であるが、師・須利耶蘇摩や母との誓いの「法華経を東土に伝えるのは自分の使命である」という強き自覚の一念が、なさしめたものであると思う。

 鳩摩羅什が漢訳した「妙法蓮華経」は 「教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ」(1007P) と、仏意にかなった名訳であり、天台・伝教・日蓮大聖人が用いられて、万人成仏の根源の一法となったのである。
 
 鑑真は、中国唐代の僧で揚州の大明寺に住し、日本の入唐僧、栄叡(ようえい)・普照の請を受け、渡日を決意した。唐は国民の出国を禁じており、国禁を犯しての渡航であった。

 第1回743年(55歳) から 第5回748年(60歳) まで、その間・暴風雨で遭難したり、密告により官憲に捉えられたり、そんな過酷な状況の中、栄叡は命を落とし、鑑真は眼病で失明してしまう。

 第6回753年(65歳)、ついに第十回目の遣唐使がやって来た。帰国船にやっとの思いで潜り込み、12月20日薩摩の地を踏んだ。翌754年2月4日(66歳)、鑑真は平城京に到着した。第1回の密航から11年、6度目で悲願を達成した。その生き様は、壮絶としか言い様のないものである。

 鑑真は渡来した時、仏舎利・律・経典などを渡したが、なかでも天台大師の 「摩訶止観・法華玄義・法華文句」 は、後に伝教大師がこれを学び、日本天台宗の興隆に大きく貢献した。この様に迹化の菩薩たちも、釈尊との霊鷲山会の誓いを忘れず、仏法東漸のために命を懸けて実践しました。

 日蓮大聖人は 「剰(あまつさ)へ広宣流布時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360P)・「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(265P) と仰せられています。日蓮大聖人の本弟子、地涌の菩薩と自覚するならば、仏法西還のために戦おうではないか。

 戸田先生は “青年訓” の中で、「霊鷲山会に、共々座を同じうしたとき、『末法の青年は、だらしがないな』と、舎利弗尊者や、大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣くことを知らなくてはならない。
  奮起せよ! 青年諸氏よ。  闘おうではないか! 青年諸氏よ」 
と、呼びかけられています。