​​​​​師弟不二の共戦譜 第2回下


​​​​​師弟不二の共戦譜 第2回下 大阪 ​​​​​​​​​​​​​私は、権力の魔性とは徹底抗戦します
広布の師の覚悟
10巻「幸風(こうふう)」の章では、伸一が各地の班長、班担当員(当時)との記念撮影の戦いを、まず大阪の地で開始する場面が紹介されていく。
関西の同志との記念撮影会は65103日、大阪府布施市(現在 東大阪市)の体育館で行われた。
先生は、この撮影会に参加する関西の友の心意気を、こう記している。
「”真を写す”のが写真やから、折伏もせえへんで記念撮影に参加したら、覇気(はき)のない顔が永遠に残ってしまうことになるで。えらいこっちゃ!」
親しみの込められた表現であり、 関西の友の心が率直に表れている言葉である。
いかなる時も、戦い抜いて師匠のもとに集う——この学会精神が、ユニークな言葉の中にも、キラリと輝いている。
記念撮影会に臨む伸一もまた、 体調が思わしくなく、発熱に苛(さいな)まれるなか、全力で励まし続けていく。
自らがどうなろうとも、弟子の奮闘に真心で応え、弟子の未来に希望の光を送っていく。それが広布の師の覚悟(かくご)であった。
14卷「烈風」の章では、6912月、この年7度目となる関西指導での激闘に触れられている。
東大阪市の市立中央体育館で20日に開催された関西幹部会では、伸一が体調不良であるにもかかわらず、全力でスピーチし、さらには「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を力強く執(と)る。
この関西指導への思いを、先生は、こう強調している。
「彼は、この関西指導に広宣流布の未来をかけていた。
関西がすべてに大勝利し、常に全国をリードする存在になれば、広宣流布の新しい流れが開かれることになる。
なぜなら、それは、各方面が中心となって、学会を牽引(けんいん)していく、地方の時代の幕開けを意味するからだ。
それだけに、この関西訪問は、なんとしても大成功させなければならなかったのである」
17卷「希望」の章では、73年、交野市(かたのし)に開校した創価女子中学・高校(現在の関西創価中学・高校)での、伸一と学園生との原点の日々が紹介されている。
18卷「前進」の章では、73 12月に中之島大阪市中央公会堂で開催された第36回本部総会に言及。
これは、東京以外で行う初の本部総会であった。
22卷「新世紀」の章では、”経営の神様”といわれた松下幸之助と伸一の交流が記されている。
伸一は松下の招きを受け、大阪・門真市松下電器産業本社を見学。
また、松下が創価女子学園を訪れるなど、2人は何度も交流を重ねている。
23卷「勇気」の章では、大阪の戦い、そして大阪事件の精神をあらためて記述。
出獄から20年目を迎える76年の「717」を記念し、「人間革命の歌」を作り、発表していくシーンが描かれる。
24卷「母の詩」の章では、761117日に誕生した、豊中市 関西牧ロ記念館の開館式、翌18日に関西戸田記念講堂で行われた学会創立46周年の記念式典、ならびに牧口先生の33回忌法要に言及。
同巻「厳護」の章では、関西戸田記念講堂で開催された「教学部大会」(77115)での、伸一のスピーチを詳述(しょうじゅつ)している。
 
民衆を守り抜く 人間讃歌の都であれ!
常勝の空
787月、伸一が関西の歌を作っていく様子がつづられたのが、第28卷「広宣譜」だ。
7月初め、伸一の提案を受け、関西青年部が中心になって歌の制作を開始。8日午前、伸一のもとに案が届けられた。
伸一は、皆の苦労を偲(しの)びつつ、自らが歌詞を作って贈ろうと決意し、その日の午後から早速、取り掛かる。
作詞は、伸一が、胸中にほとばしり出る思いを口述(こうじゅつ)し、妻の峯子(みねこ)がメモをして進められた。
歌詞の案は、いったんはまとまったが、その後も伸一は、関西の同志の意見も聞きながら推敲(すいこう)を重(かさ)ねる。
曲も、担当するメンバーに自ら曲想を語り、ロずさんでイメージを伝えるなど、重ねて練り直していった。
こうして歌は完成したが、歌を発表する幹部会に向かう直前まで、伸一は全生命を絞(しぼ)り尽くして、曲を再確認する。
伸一は、関西の歌について、語った。
「点数をつければ、98点だね。あとの2点は、関西の同志の魂(たましい)だ。歌に、関西の同志の魂が入った時に、100点満点になる」
この「2点」は、”あとわずか2点!ではなく、関西の同志にとって、とてつもなく意味のある、いわば"絶対に勝ち取らねばならない2点!と言える。
「常勝」が関西の使命である。
「不敗」が関西の誓いである。
それは、一人一人が「全てやり切った」と胸を張れる"満点”の戦いがあってこそ勝ち取れる。
わずかな差で苦汁(くじゅう)をなめることもあるからだ。
広布の師の真心と信頼に、弟子が全力で応えていく。
「師弟勝利」の画竜点晴(がりょうてんせい)は、弟子の執念の姿、 弟子の闘魂であることを関西の歌、すなわち「常勝の空」は訴えているのではないだろうか。
「広宣譜」の章では、「大阪の日」にあたる717日、関西戸田記念講堂で開催された記念幹部会で、関西の歌が発表される。
そして、いよいよ合唱である。
「皆、心に熱い血潮(ちしお)をたぎらせながら、声を限りに歌った。
ある人は、『君と我とは久遠より』の一節を歌いながら、感涙に眼(まなこ)を潤(うる)ませた。
ある人は、『愛する関西勇み立て』との言葉に、胸を揺(ゆ)さぶられる思いがした。
ある人は、『いざや前進恐れなく』に、無限の勇気を覚(おぼ)えながら熱唱した。
壇上には、共に戦い、常勝と不敗の歴史の礎(いしずえ)を築いた伸一がいた。
皆、涙に霞(かす)む目で、その姿を見つめつつ、再びの出発を誓うのであった。
伸一もまた、関西の不一の同志に熱い視線を注ぎながら、心で叫び続けていた。
”愛する、愛する関西の同志よ 未来永劫に関西は、正義の旗が高らかに翻(ひるがえ)る常勝の都でれ!民衆を守り抜く人間讃歌の都であれ!
関西がある限り、学会は盤石(ばんじゃく)だ ”(28卷「広宣譜」)
 
他者のために生き抜く時、 生命は最も発揮される
大阪の各地へ
78119日、伸ーがこの年6度目となる関西指導に臨む。その折の行動は、第29卷「常楽」の章に詳しい。
この頃、学会員に対して、宗門僧による非道な仕打ちが各地で繰り返されていた。
健気な同志を守り抜くため、伸一は間隙(かんげき)を縫(ぬ)って 大阪の各地を回り、多くのメンバ一を直接、励ましていく。
大阪に到着した伸一は、早速、豊中市の関西牧ロ記念館で行われた関西最高会議に出席。
「教養」「健康」「真剣」等、指導者の要件を力説して
いく。
10日、伸ーは堺文化会館(後の堺平和会館)を訪問。堺支部結成25周年の佳節を祝う勤行を行い、参加者を励ます。
終了後、泉佐野市(いずみさのし)の泉州(せんしゅう)文化会館へ。
伸一が青年室長時代、一緒に食事をしながら懇談したメンバーたちと再会する。
さらに、この日と、翌11日に行われた泉州文化会館の開館記念勤行会に出席。
渾身(こんしん)の指導を行う。12日には岸和田市泉州会館を視察。
 移動の車中で「泉州の歌」を作詞する。さらに、予定にはなかったが、急遽(きゅうきょ)、南大阪文化会館(後の羽曳野(はびきの)文化会館)を訪問。真剣勝負の激励を重ねている。
29卷「カ走」の章では、関西婦人部長の栗山三津子が、がんと診断され、手術を控えていることを聞いた伸一が、真心の手紙を書き送る。
なお、同章で大阪を舞台にしたシーンが聖教新聞で連載され始めたのは、奇(き)しくも「関西の日」である48日であった。
さらに伸一は、病や死という問題を、三世永遠の生命観から捉(とら)え、大確信を込めて語る。
この伸一の指導は、病魔と闘う友や、大切な人を失つた友に、限りない希望と勇気を送った。
「病に打ち勝つ根本は、大生命力を涌現させていくことです。
その力は、他者を守るために生き抜こうとする時に、最も強く発揮されるんです。
戦時下に生きた人びとの記録や引き揚げ者の証言等を見ても、子供を守ろうと必死であった母たちは、誰よりも強く、たくましく生き抜いています。
私たちは、広宣流布という万人の幸福と世界の平和の実現をめざしている。
その使命を果たしゆくために、自身の病を克服しようと祈るならば、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が涌現し、あふれてきます。それによって病に打ち勝つことができるんです。
また、信心をしていても、若(わか)くして病で亡くなることもあります。
それぞれのもっている罪業というものは、私たち凡夫(ぼんぷ)には計(はか)りがたい。
しかし、広宣流布に生き抜いた人には、鮮やかな生の燃焼があり、歓喜がある。その生き方、行動は、人間として尊き輝きを放ち、多くの同志に共感をもたらします。
病床にあって見舞いに訪れる同志を、懸命に励まし続けた人もいます。
薄れゆく意識のなかで、息を引き取る間際まで、題目を唱え続けた人もいます。
それは、地涌の菩薩として人生を完結した姿です。
今世において、 ことごとく罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)したことは間違いありません。
さらに、生命は三世永遠であるがゆえに、来世もまた、地涌の使命に燃えて、地涌の仏子の陣列に生まれてくるんです。
広宣流布の大河と共に生きるならば、病も死も、なんの不安も心配もいりません。私たちには、三世にわたる金色燦然(こんじきさんざん)たる壮大な幸の大海が、腕を広げて待っているんです」
そして池田先生は、この指導に続き、万感の思いを込めて記した。
「伸一は、不二の関西の同志には、何ものも恐れぬ勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の人に育(そだ)ってほしかった」
 
​​​大阪への指導
真剣、一途、誠実であれ
(関西牧口記念館での関西最高会議で、リーダーの姿勢について語る場面)
 
「学会活動は、現代における最高の仏道修行です。
仏道修行というのは、己(おのれ)との対決であり、自分の限界を打ち破つて、心を強く、 大きくし、境涯を開いていくためのものです。
したがつて、人の目を意識し、格好(かっこう)だけ取り繕(つくろ)っても、根底にいい加減さがあれば、人間革命はできません。
しかし、真剣であり、一途な人、誠実な人は、必ず、大きく成長していきます。
信心が惰性化(だせいか)していくと、この 根底の真剣さが萎(な)えてしまい、一生懸命やっているように見せかけて終わってしまう。
そうなれば、どんな幹部であろうと、信心の歓喜はなくなり、人を触発することもできません。
 22年前の、あの”大阪の戦 い”で大勝利を収めることができたのは、皆が真剣であったからです。
だから歓喜があり、功徳があり、確信が湧き、感動のなかに凱歌を響かせることができた。
新しい『常勝関西』の建設のために、中心となる幹部の皆さん方は、このことを忘れないでいただきたい」
こう語る彼の口調には、関西の大飛躍を願う、強い思いがあふれていた。(29卷「常楽」)
 
大阪への指導
関西魂の継承
大阪の庶民のなかに身を投じ、 "この世の悲惨をなくす””誰一人 として幸せにせずにはおくものか!”と誓った 戸田城聖の一念——それは即「平和の心」にほかならなかつた。
伸一は、この戸田の心を胸に、 その実現のために、全精魂を傾けて奔走(ほんそう)した。
そして、関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈せず、 民衆の幸と蘇生の歴史を綴ってきた。
まさに、”関西魂””学会精神”の継承(けいしょう)のなかで、「平和の心」 も受け継がれていくのである。 (30卷下「誓願)​​​
 
古の奇しき縁に仕へしを人は変れどわれは変らじ
私たちの師匠
30巻上「大山」は、第1次宗門事件について詳述された章である。
ここでは、79424日、会長を辞任した日の夜に行われた、関西での緊急の会合で、登壇した幹部が声を大にして叫ぶ様子が描かれている。
「『古(いにしえ)の 奇(く)しき縁(えにし)に 仕(つか)へしを 人は変れどわれは変らじ』———この和歌のごとく、たとえ山本先生が会長を辞めても、関西のたちの師匠は、永遠に山本先生です」
その叫びに応じて、皆が「そうだ」と拳(こぶし)を突き上げた。  
この和歌は、かつて戸田先生が理事長を辞任した折、池田先生が戸田先生に贈ったものである。
関西の叫びは、師弟に生き抜く覚悟(かくご)を決めていた全同志の心そのものであった。
池田先生の会長辞任後、関西婦人部は「何があっても、私たちの師匠は池田先生」との誓いを皆で固めた。
その一人、栗原明子さん (関西婦人部総主事)は女子部時代、「大阪の戦い」を通し、師弟の精神を刻んだ。
——5648日、大阪球場で、戸田先生を迎えての総会が開催されることになった。
池田先生は大阪の会員に、「師匠をお迎えする時は、勝利の結果をもって臨むのです」と、師恩に報(むく)いる戦いを強調。
若き池田先生の一念は大阪の隅々にまで行き渡り、日本一の結果をもって総会の日を迎えることができた。
「師弟の精神を教わった大阪の同志は、ますます拡大の対話に、意気揚々と進みました。
そして4月、9000を超える弘教を成就しました」(栗原さん)
5月、折伏とともに、参院選の支援の戦いも加速の度を増した。
そんな時、”暴力宗教創価学会 のデマビラが大阪中にまかれた。
「対話に行くと、根も葉もない中傷を浴びせられました。
しかし、 池田先生は泰然自若(たいぜんじじゃく)とされていました。
『聖人御難事』の『各各(おのおの)師子王の心を取り出して・いかに人をとすともをづる事なかれ、師子王は百獣(ひゃくじゅう)にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等(かれら)は野干(やかん)のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり』(御書1190ページ)の一節を引かれ、『勇将(ゆうしょう)の下(もと)に弱卒(じゃくそつ)なし』と、私たちを鼓舞(こぶ)してくださいました。
先生の師子吼は皆の決意になり、5月、11111世帯の折伏を成し遂げることができたのです」
”不滅の金字塔”は、順風満帆(じゅうんぷうまんぱん)の状況で打ち立てられたのではない。
嵐のなかでも全く怯(ひる)むことのなかった、池田先生の一念が根源である——栗原さんはそう力説し、言葉を継いだ。
「大阪は、池田先生に心を合わせれば、どんな苦難も乗り越えられる。
どんな悪戦苦闘も必ず勝てる。その”原理”が皆に毛穴から入っています。
だから、大阪は、関西は、強いのです。
小説を学ぶたびに、大阪への、関西への、池田先生の思いが、こんなに深いのかと心が震(ふる)えます。
今はまだ、『末法万年尽未来際(まっぽうまんねんじんみらいさい)』の草創期。私たちは、新たな師弟の原点を刻む戦いをしていきます」
 
「五月三日」
30卷上「雄飛」の章では、会長辞任から1年がたった8053日、落成間もない関西文化会館で、伸一が同志を包み込むように励ます姿が活写(かっしゃ)されている。
この日は、同年2月、伸一が「53」を「創価学会の日」と定めてから初めて迎える祝賀の日であった。
創価学会の日」を記念する勤行会。伸一は、同志を出迎え、握手(あくしゅ)を交わし、記念のカメラに納まっていった。
役員にもねぎらいの言葉を掛け続けた。
記念勤行会に参加した後、伸一は、関西牧ロ記念館へ。筆を手にした彼は、魂を注ぎ込む思いで、「五月三日」と大書した。
2日後の55日、伸一は、関西文化会館で開催された、「創価学会後継者の日」を記念する勤行会に参加。
さらに、大阪の男子部部長会、女子部部長会等に出席し、58日まで、死カを尽くすように同志を鼓舞していった。
30巻下「勝ち鬨(どき)」の章では、 81710日、関西文化会館で開催された青年部総会に、伸一が祝歌を送る。
最終章「誓願」は、82322 日、大阪の長居(ながい)陸上競技場で行われた、第1回関西青年平和文化祭の模様から書き始められている。
池田先生は、文化祭初となる「六段円塔」に挑む青年たちの姿を、臨場感あふれる筆致で描いた。
さらに、そこに秘められた友情のドラマに触れつつ、”関西魂”の淵源(えんげん)を示していく。
「”この大阪から、貧乏(びんぼう)と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”といぅのが、戸田城聖の思いであった。
この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣(はけん)した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執(と)り、関西の地を走りに走った」
そして池田先生は、大阪支部で弘教の金字塔を成し遂げた歴史や、「”まさか”が実現」の劇的な大勝利、さらに、「大阪大会」で、"権力の魔性は断じて許さない”と正義の炎を赤々と燃やした同志の誓いをあらためてつづり、こう続けた。
「その時の、背中の子どもたちも、今、凜々(りり)しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
青年たちは、仕事や学業のあと、息せき切って、練習会場に駆(か)けつけ、必死に、負けじ魂をたぎらせて練習に汗を流した。
草創期を戦った壮年や婦人は、毎日のように応援に訪れ、連れて来た孫(まご)たちに言うのである。
『よう見とき、あの懸命に頑張る姿が関西魂や!学会精神や!』
 草創の同志は、後継の若師子たちが、見事に育ち、魂のバトンが受け継がれていくことに、喜びと誇りを感じたのである。