第20回  池田先生と宮崎 (2019.3.28)

 
真剣の一念で不滅の歴史を
宮崎研修道場から太平洋を望む(1999年2月、池田先生撮影)。
先生は愛する宮崎の友に呼び掛けた。「
『日向』。なんと深い意義のある地名であろうか! 宮崎の若き開拓者の諸君よ、太陽に向かって、決然と立ち上がれ!」
 
信心は「確信」
1958年(昭和33年)の初訪問以来、池田先生は宮崎に足を運ぶたび、3400人の同志との記念撮影会(67年9月)や、1日5回に及んだ1万人の自由勤行会(78年8月)をはじめ、一人また一人と心の絆を結んできた。
91年2月に宮崎を訪れた折には、延岡の友に「いつの日か 延岡ゆきたし 桜かな」と詠み贈っている。
その友は、67年の記念撮影会で「先生、延岡に来てください!」と懇願した女性だった。
一瞬の出会いを大切にし、励ましを重ねる──この師の心をわが心として、宮崎の友は広布の裾野を広げてきた。
91年2月の第1回宮崎県記念総会では、宮崎の四季折々の美しさや太陽のごとく明るい友の心をたたえつつ、師弟の信心で進もうと望んだ。
宮崎は実に美しい。一年中、恵まれたみずみずしい緑。雄大な太平洋。
「日向」という名も、“日の出に向かう”ことに由来するとの説があるほど、太陽は燦々と降りそそぐ。
どれだけ広布のために戦い、人のために尽くしたかが、人生の勝敗を決めていく。
また一切が、生々世々にわたる、自身の「財宝」となる。信心にムダはない。
法のため、人々のために尽くした分だけ、自分自身を大きく輝かせていく。
信心は学歴ではない。理論でもない。確信である。
御本尊への強い確信の信心に、無量の知恵がわいてくる。
いつの時代、いずこの世界にあっても、「師弟」という人生の原点をもっている人こそ、最も聡明に人生を生きている人なのである。
法華経を持ち説く者」とは、妙法を受持し、いかなる圧迫があろうとも、民衆のなかで広宣流布へと戦う人のことである。
その広布の戦士には、いかなる差別もない。
在家であれ、出家であれ、尊き仏の使いであり、仏であると説かれている。
その人を、悪意をもって、ことさらに陥れ、見下していく人は、大変な罪を得る、仏敵となると仰せである。
ともあれ私どもは、経文のまま、御書の教えのままに進む。ゆえに何ものも恐れない。
一切は時とともに明確になっていく。
「世界一の学会」、また「世界一の宮崎」を目指していきたい。
信心の世界で、世界一を目指し、祈り、努力していくことは、因果?時で、自分自身が、世界一の長者、幸福者となっていくからだ。
 
大海原の境涯
本年は99年2、3月の宮崎指導から20周年。
沖縄から空路で宮崎入りした先生は、宮崎研修道場に到着するやいなや、陰で奮闘する守る会の友らのもとへ。
握手を交わし、心からの感謝を伝えている。
この折、先生は同行の幹部に語った。
「私は会長になって以来、いや、なる前から、学会を支え、守ってくださる方を一番大事にしてきた。
この魂がある限り、創価学会は永遠に発展していく」と。
九州・宮崎創価同窓の集い(2月28日)では、“日南の大海原のような境涯で対話の波を”と呼び掛けた。
ともあれ、相手がだれ人であろうとも、怯んではならない。臆してもならない。
仏法では「本有無作」と説く。要するに“はたらかさず、つくろわず、もとのまま”である。
本然のわが生命を「最高最善」に輝かせていく生き方である。
日南の大海原のような、こういう広々とした境涯になったら、勝ちである。自由自在である。
小さな、狭いエゴに固まったり、つまらない意地を張っても、損をするだけである。  
「言葉一つ」「言い方一つ」そして「心一つ」で、人生は、どのようにでも悠々と開いていける。
これが「智慧」である。
「知識」それ自体は、幸福ではない。
「幸福」をつくるのは「智慧」である。
「知識」だけでは行き詰まりがある。
智慧」は行き詰まりがない。
智慧」の水は、わが心の泉から限りなく汲み出していけるのである。
これからの激動の時代は、いよいよ「智慧」のある人が勝つ時代である。
 
折伏精神を胸に
同窓の集いの翌日(99年3月1日)には全九州最高協議会が開かれ、九州各地から代表が宮崎研修道場に集った。
日蓮大聖人は仰せである。
「強敵を伏して始て力士をしる」(御書957ページ)
「強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり」(同332ページ)
広宣流布の試練の法戦を堂々と戦い、そして晴れ晴れと勝ち越えてきた、九州の勇敢なる全同志と、私は“心と心の握手”を交わしたい。
けなされようが、ばかにされようが、仏意仏勅のために一番苦労し、働き続けておられる皆さまこそ、どんな有名人よりも尊い方々である。
「無上の人」である。
大聖人が、お守りくださらないわけがない。信心という「最高の宝」をもった皆さま方の功徳は、末代まで永遠であることを確信していただきたい。
何ものにも負けぬ、何ものをも恐れぬ折伏精神、広宣流布の精神が、永遠不滅の「九州魂」である。
大聖人は、仏眼、法眼をもって、社会の動静を鋭く見つめておられた。
また、その人の立場になって、こまやかに思いやっておられた。
そして、内外を問わず、一人一人の心を強く深く、つかんでいかれたのである。
法華経には「観世音菩薩」が説かれる。観世音の「世」とは社会である。
社会の声を観じ、世の中の動きを観じていく力が「観世音」にはある。
仏法の指導者は、観世音の力を発揮しながら、適切な手を打ち、味方を増やし、広宣流布の正義の陣列を固めていくのである。
 
共に勝利の春へ
99年2月27日の宮崎最高会議で、池田先生は重ねて宮崎の尊き使命を訴えた。
師の深き期待を胸に、同志の心には広布拡大の誓願が熱く燃え盛っている。
宮崎は、大事な大事な国土である。その皆さま方のご健闘を、私は心から、ねぎらいたい。称えたい。
そして、爛漫の勝利への春風を、私は送りたい。
だれが見ていなくても、皆さま方の労苦に、御本尊は必ず必ず報いてくださる。
功徳とは、遠くに「追い求めるもの」ではない。
広宣流布を目指し、自行化他の信心に励みゆくなかで、自然のうちに備わってくるものである。
どのような立場になろうと、広宣流布の戦いにあっては、遠慮があってはならない。   
御聖訓には「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して」(同1337ページ)と仰せである。
「臨終只今にあり」──この熱烈たる真剣な一念に燃えてこそ、はじめて不滅の歴史を残すことができる。
愛する宮崎の地涌の菩薩の皆さま! 無限の希望に満ちた宮崎広宣流布の「開拓」を、私と一緒に進めてまいりましょう!