「SGIの日」記念提言(上)(下) 2007年 1月26日

「SGIの日」記念提言(上) 1月26日



「生命の変革 地球平和への道標」

 戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」から50周年

 核廃絶へ決然たる行動を!!

 第32回の「SGIの日」を迎え、我々が直面している人類史的諸課題のいくつかについて、所感の一端を述べてみたいと思います。



黙示録的兵器に対する強い怒り



 さて今年は、恩師の戸田城聖創価学会第2代会長が、核兵器を“絶対悪”と位置付けた歴史的な「原水爆禁止宣言」を世に問うてから、ちょうど50年の節目を迎えます。

 思えば半世紀前の9月初旬、残暑の気配も濃厚な横浜・三ツ沢の陸上競技場において、澄み渡った青空の下、各地から集った5万の青年たちを前に、恩師は「遺訓すべき第一のもの」として、この宣言を後世に託したのであります。

 衰弱しつつあった身にもかかわらず、巨人“アトラス”のように、満腔の気迫をこめた力強い声の響きは、昨日のことのように耳朶に焼き付いております。

 それは、時とともに、今後はいっそうのこと輝きを増していくにちがいない。まさにモニュメンタル(記念碑的)な宣言といってよく、ここにその主要部分を引用しておきたいと思います。

 「――核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。

 なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」

 もとより恩師は、常々「死刑は絶対によくない」と述べておりました。その死刑廃止論者の恩師が、なぜ「死刑」と糾弾したのか――それは、生命の尊厳という最極の価値を根こそぎにし、生存の権利を脅かす輩への、仏法者としての心底からの怒りの表出でありました。「魔もの」「サタン」「怪物」の奥にひそむ魔性の「爪」をもぎとらんとの断固たる決意、闘争宣言が「死刑」という激しい言葉となってほとばしり出ているのであります。

 強大な破壊力、殺傷力ゆえに、種としての人類の存続、地球文明の命運にさえもとどめを刺しかねないこの黙示録的兵器の本質を、イデオロギーや社会体制を超えた人間の生命次元、その深みから浮き彫りにした洞察は、その2年前に発表された、有名な「ラッセル・アインシュタイン宣言」の一節と、通底するものであるといってよい。

 「私たちは、人類として、人類にむかって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と」(『核の傘に覆われた世界』久野収編、平凡社

 仏法者である戸田会長が、なぜ原水爆禁止なのか、それがなぜ、将来を背負う青年たちへの“第一の遺訓”なのか、正直いって、弘教ひとすじに走り続けていた当時の若い人たちにとって、新鮮な驚きと同時に、唐突な感もあったと思います。

 “宗教的使命”といっても、単独で存立するものではなく、広く“社会的・人間的使命”により補完されて初めて完結する、「立正安国」という日蓮仏法の深義までは、なかなか思い及ばなかったようであります。

 逆にいえば、そこにこの「宣言」の意義、先見性があるのであり、核兵器が今なお人類の生存を脅かし続けている現状からみれば、なぜ恩師があの時期、あのような布石を打たれたのかということの重みが、ひしひしと実感できるのであります。



保有国の軍縮努力が急務



 以来、我々(創価学会・SGI)は、「原水爆禁止宣言」の精神にのっとり、地道な活動を展開してきました。1974年には、恩師の遺訓を継いだ青年たちが、原水爆禁止1000万署名を達成。その署名簿は、翌75年、私の手で国連に提出いたしました。

 また、「核兵器――現代世界の脅威」展(国連広報局、広島・長崎市と共催)を、82年の国連本部を手始めに開催し、96年に内容を一新して開催された「核兵器――人類への脅威」展と合わせて、旧ソ連、中国などの社会主義国を含む世界24カ国39都市で開催。見学者は、つごう170万人を超え、展示を通じて核兵器の恐ろしさ、残虐さをアピールしてきたのをはじめ、各種各様のイベント開催に取り組み、平和とくに核軍縮・廃絶への国際世論の形成に向け、尽力してきました。

 さらに、創価学会ならではの試みと高く評価された反戦出版の企画も、青年部の「戦争を知らない世代へ」(全80巻)、婦人部の「平和への願いをこめて」(全20巻=昨年、DVDも完成)など、時を追って風化せざるをえない貴重な戦争体験を、手記や証言の形で後世に残すことができました。

 私自身も、毎年の「SGIの日」記念提言をはじめ、各界のさまざまな識者との会見の折、あるいは、対談集(たとえば、L・ポーリング博士との『「生命の世紀」への探求』、M・ゴルバチョフソ連大統領との『二十世紀の精神の教訓』、J・ロートブラット博士との『地球平和への探究』)の発刊などを通じて、核兵器廃絶、反戦、平和の文化建設への道を模索し、語り合ってきました。

 人類史上、かつてない大殺戮時代となってしまった20世紀との決別は、世界の民衆に共通する心からの願望であるにちがいないと信じたからであります。その確信は、もとより今でも変わりませんし、世界の心ある人々の共有する精神の地下水脈であるといってよい。



北朝鮮とイランの核開発が問題化



 とはいえ、核をめぐる状況は、予断を許しません。それどころか、眉をひそめたくなるような憂慮すべき危機的状況にあるといっても過言ではない。

 昨年の北朝鮮による核実験の強行は、一衣帯水の国だけに、ミサイル問題と合わせ、日本をはじめ周辺諸国に深刻な脅威をもたらしました。しかも、国連決議に見られるように、世界中から非難を浴びながらも、北朝鮮はその計画を捨てようとせず、頓挫していた6カ国協議も年明けて幾筋かの光明がみられるものの、決して楽観は許されません。

 イランをめぐる核疑惑にしても、長年、紛争が続いてきた地域だけに、どのような核拡散の連鎖反応を呼び起こしていくか、予測の限りではありません。

 多くの人々が憂慮しているように、核兵器が核の闇市場を通してテロリストの手に渡るなどしてしまえば、想像を絶する、戦慄すべき事態を招いてしまうこと、火を見るよりも明らかです。残念ながら、世界中に2万7000もの核弾頭を抱え、そうした危機的状況に直面しているのが、21世紀初頭の現実です。

 もっとも、北朝鮮やイランに核兵器開発の自制を求めることは当然のこととして、それを一方的に難ずるだけではバランスを欠きます。現在の核状況を招き寄せた一半の責任は核保有国にあり、核保有の現状を容認したままでは、いくら不拡散を言っても保有国のエゴイズムではないかという言い分に反駁することは、なかなか困難でしょう。

 そのためにもNPT(核拡散防止条約)やCTBT(包括的核実験禁止条約)などに、保有国は率先して、積極的に取り組まなければならない。NPTには、保有国が核軍縮を誠実に推進するよう謳われているにもかかわらず、進行は一向にはかばかしくなく、むしろ形骸化さえ憂慮されている。

 周知のようにNPTは、5年ごとに再検討会議を行っていますが、2005年にニューヨークで開かれた会議は、核保有国と非保有国との対立で機能麻痺に陥ってしまっている状況で、私と対談集を発刊したロートブラット博士などは「現在の危機は、三十五年のNPTの歴史で、最悪のものです」(『地球平和への探究』、潮出版社)と慨嘆し、とりわけ保有国の誠意ある取り組みをうながしていました。



常に他に勝ろうとする「修羅」の生命――



人間の尊厳と生存の権利脅かす魔性の“爪”をもぎとる戦いを!

 「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した人々の唯一の生存者(当時)であり、人生のすべてをかけて核軍縮に挺身してきた方の警鐘だけに深く耳を傾けるべきでしょう。そうでなければ、国際世論に逆らってでも強引に核開発を推し進め、その既成事実の上に存在感を誇示しようなどという隙を与えてしまう。保有国の誠実な姿勢、努力に裏打ちされて初めて、核軍縮への流れが形成されるのだということを、決しておろそかにしてはならない。

 ともすれば、核拡散へと向かいかねない流れを、どう軍縮の方向へと向けていくか――その“転轍機”(線路の分岐点で車両を2方向に進行させる装置)は、やはり、人類の将来を見据えた発想の転換でしょう。

 かつて、アインシュタインは「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」(O・ネーサン/H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡2』金子敏男訳、みすず書房)と警告しました。その発言を精神的巨人特有の預言者的言辞であり、現実的対応にはなじまないとする論調が昔も今もありますが、私はそうは思いません。

 その意味で、1月4日付の「ウォールストリート・ジャーナル」紙に、「核兵器のない世界へ」とのタイトルで掲載された、ジョージ・シュルツウィリアム・ペリーヘンリー・キッシンジャー、サム・ナンの各氏の共同執筆による論説記事に記された次のメッセージは、きわめて注目すべきものでしょう。

 「いま現存する核兵器は、甚大な脅威をもたらすと同時に、歴史的なチャンスを提示してくれている。世界が次なる段階へ進むよう、牽引役としてのアメリカの指導力が求められている。いうなれば、核兵器への依存を地球規模で克服しようという確かな合意を形成して、危険性を孕んでいる勢力への核拡散を防ぎ、ついには核の脅威を終焉させるための重要なステップとしていくべきなのだ」

 アインシュタイン的発想は、いわゆる“現実主義者”といわれる人にも決して無視できなくなっているのではないでしょうか。そうでないと、たとえば人間の不信感、猜疑心と恐怖感のみに依拠した“抑止論”の泥沼から、容易に抜け出せなくなってしまう。たしかに核軍縮は、M・ヴェーバーのいう「情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」(『職業としての政治』脇圭平訳、岩波書店)でしょうが、そうした忍耐強い努力を続けていく“バネ”となるものこそ、発想の転換であると思います。

 その意味からも、日本人の唯一の被爆国としての反核への信念は、軽々に捨て去ってはならない。北朝鮮の核実験を機に、核論議の解禁をうながす声もありますが、私はそこに“抑止論”に踏み込みかねない、ある種の危うさが感じられてならない。

 たしかに、北朝鮮の核問題(拉致問題も含めて)は、悩ましい問題であります。“対話と圧力”といっても“対話”路線だけでは二進も三進もいかないような難題に直面せざるをえないような事態は、個人的にも国家的にもつきものです。

 そうしたアポリア(難問)、ジレンマにどう立ち向かい乗り越えていくかで、人間の真価が、平和への信念がどれほど強固なものであるかが、問われます。アインシュタインをはじめ、良心的な科学者がそうであったように、その過程で悩みに悩み、苦しみに苦しみ、ぎりぎりの選択を勝ち取っていく労作業なくして、核廃絶への道筋は見いだせないにちがいない。