「SGIの日」記念提言(上)(下) 2007年1月26日 (2)

ソフト・パワーを最大限に生かす道



 私は、一昨年のこの提言で“人間主義の行動準則”ともいうべきものを、次のように提起しておきました。

 「全ては変化――、相互依存(縁起)し合っており、調和や全一性はもとよりのこと、矛盾や対立といえども、結びつきの一つの現れである。故に、矛盾、対立の内なる制覇に発する、悪との戦いは、大きな結びつきに到るまでの避けられぬ、避けてはならぬ荊棘(試練=事態の紛糾しているさま)である」と。

 文中「結びつき」という言葉がリフレインしています。つまり人間は、人種、民族、国境を超えて、人類の一員であるという一点で結びついており、絶対に忘失されてはならない前提である。とはいえ、矛盾や対立がしばしば生じるのも事実で、放置しておけば、悪を増長させ、予期せぬカタストロフィー(破滅)を招きかねない。「悪との戦いは、大きな結びつきに到るまでの避けられぬ、避けてはならぬ荊棘」なのであります。

 これ以上の核拡散を何としても阻止するという課題も、世界平和にとって「避けられぬ、避けてはならぬ」課題であり、手をこまぬいていれば、核拡散の歯止めがきかなくなってしまう。

 その際、一番のポイントは、「矛盾、対立の内なる制覇」による人類意識に立った悪との戦いであるという点です。これが、私の申し上げる“転轍機”に当たります。この“転轍機”がしっかりと機能してこそ“対話と圧力”の時に応じ、機を逃さぬ、効果的なブレーキのかけ方が可能になってくる。人類意識という「結びつき」が強ければ強いほど“圧力”というハード・パワーを最小限に抑え、“対話”というソフト・パワーを最大限に活用していく方途が開けていくと思います。残念ながら、イラク戦争の場合など、このウエートの置き方が、まったく逆になってしまいました。

 “アメリカの良心”といわれ、私と対談集を発刊したノーマン・カズンズ氏は「単にアメリカだけでなく、世界の大部分における教育の大きな失敗は、教育が人々に人類意識ではなくて、部族意識を持たせてしまったことである」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と嘆じていました。

 昨年11月、東京でお会いしたIAEA国際原子力機関)のエルバラダイ事務局長も、「私ども人類が、どれほど、さまざまなことを共有しているか。(中略)人種、民族、宗教、そして肌の色を超え、『人間の一体感』を理解できれば、平和は実現できる」と、力強く語っておられました。

 また、ロートブラット博士も、私との対談で「ラッセル・アインシュタイン宣言」を想起しながら、「私たちは、『地球規模の安全保障』に必要な方法と『人類への忠誠心』を、身につけることができるであろうか」(前掲『地球平和への探究』)と問いかけつつ、自らはその確信と透徹した楽観主義によって、「未完の回答」を残して逝かれました。

 「人類意識」「人間の一体感」「人類への忠誠心」――こうした“転轍機”が正常に機能していさえすれば、「荊棘」がどんなに悩ましく、手に負えないように思える場合でも、投げ出したり、あわてて力による対抗手段にとびつくなど、短絡的思考のとりこになるはずがない。ヴェーバーのいう理想的政治家のように、能う限りの手段を駆使して、対話による説得と合意の形成に努力するにちがいないのです。





残虐な兵器使用の奥底にあるもの



その「人類意識」「人間の一体感」を分断させ、人々の心に不信感や猜疑心をしのびこませることによって、互いに反目し相争うように仕向けるのが、「魔もの」「サタン」「怪物」であり、その奥に隠された「爪」なのであります。

 一瞬にして無慮幾百万あるいは幾千万の犠牲者を出しかねない核兵器の使用者など、さしずめ、その魔性に取り憑かれ、生命の尊厳性などまったく眼中になくなった最悪の症例といってよい。

 その「爪」すなわち生命の魔性を生み出す根源悪は、仏法的にいえば、貪、瞋、癡の三毒=注1=ともいえますが、その魔性が他者に向けられる例が、修羅界の生命と捉えることができます。

 周知のように仏法では、人間の生命を、境涯の低い方から高い方へと、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏界の十の範疇に立て分けます。

 そのうち、下から4番目が修羅界で、仏典に「念々に常に彼れに勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己を珍む」(天台大師「摩訶止観」)とあるように、常に自分と相手を比較し、他より勝ろうとする“勝他”しか念頭になく、心が曲がっているため、物事を正しく見られない。何かにつけ諍い、角突き合わせる生命状態を指す。この種の生命が幅をきかすところから流血の惨事が引き起こされます。いわゆる“修羅闘諍の巷”の現出であります。

 また仏典には、修羅の醜怪な姿を「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝にすぎず」(日寛上人「三重秘伝抄」)と。「八万四千」「由旬」とは、いずれも古代インドの数や距離の数え方で、諸説ありますが、要するに数え切れないほど膨大、巨大なことの形容です。比喩的にいうならば、人間が修羅界の生命に占拠され、思い上がってしまうと、四大海の水も膝にしか達しないほど増長し、肥大化していってしまうというのであります。



「他者」不在の様相深まる社会

 

その著しい増長ぶり、思い上がりから見れば、「他者」(それが人間であれ、文物であれ、自然であれ)の存在はそれに反比例するように、相対的に限りなく矮小化され、影が薄くなっていくことは必然であります。

 心が曲がっているために物事の正しい姿、価値を判断できず、すべては己のエゴを満たすための手段であり、道具にすぎない。手段、道具ならば、時と場合によってはそれらを殺傷し、毀損しても、彼はさしたる痛痒を感じないにちがいない。核兵器に限らず、ベトナム戦争の頃のナパーム弾や昨今の劣化ウラン弾クラスター爆弾のような残虐な兵器を使う人、使わせる人の心事も、これと似たようなものではないか。それがもたらすであろう地獄絵図などは完全に視界から消し去り、サタンの「爪」をむき出しにした彼にとって、人命など塵芥同様の存在でしかないでしょう。

 こうした“修羅”の跳梁は、人間の尊厳にかけても拒否しなければならない。広島への原爆投下のニュースを知った時、アインシュタインが「ああ、なんということか」と悲痛な叫びをもらしたことは有名ですし、ロートブラット博士も「私の心をその時、占めていたものは、『絶望』でした」(前掲『地球平和への探究』)と。軍人はもとより、決して少なくない科学者が、新型兵器の“成功”の高揚感に沸き立っていた頃、真の大科学者の良心は、このような心底からのうめき声を上げていた。それは、恩師の生命次元からの告発と、強く響き合っているはずであります。



仏法に説かれる十界本有の生命観

 

もとより、修羅界の生命は、本来人間誰しもの生命に具わっているものです。先に十界に触れましたが、修羅界をはじめ十界が本来、ありのままの位置におさまっている姿を「十界本有」=注2=と説く。申すまでもなく、仏典には「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(御書584ページ)とあるように、正しい怒りは、「本有の修羅」であり、悪との戦いには欠かせません。そのような修羅ならよいのですが、警戒すべきは、たとえば修羅界が、十界本有の位置から分離したかのように、我が物顔で幅をきかし出す時です。こうなると、修羅は調和と秩序を乱す無法者と化し、魔性の「爪」を露わにしてくるのであります。

 したがって、サタンの「爪」をもぎとる我々の戦いとは、一言にしていえば、十界を割って分断させようと、己が分際も弁えずに暴れまくっているこの無法者を、本有の秩序、調和の世界へと引き戻し、正しく位置付け、再構成する地道な労作業なのであります。ここに「爪」をもぎとることの本義がある。後述しますが、この辺にまでスポットを当てないと、現代の科学技術文明、資本主義社会の構造――ある意味では、核兵器のような鬼子を生み出してしまう必然性を内蔵している独特の構造を前にして、「爪」をもぎとる作業も、なかなか至難なように思えてならない。

 したがって、平和・文化活動だけでなく、いかに迂遠に見えようとも、我々が日常営々と積み重ねている生命変革による人間革命運動は、「爪」をもぎとるという次元で、核軍縮・廃絶という人類史的テーマと地続きになっているのだということを、片時も忘れてはならないと思います。

 さて、ここで、近代文明の今日的特徴について、若干触れてみたい。

 修羅界という無法者は、人間に本来具わっており、いつの時代でも、隙あらば跳梁跋扈のチャンスを狙っている。事実、人間社会から、大小争いごとの絶えた試しはありません。しかし、科学技術文明と資本主義がかくも高度に発達した現代社会は、特有の“時代相”を有しており、十界の生命それぞれも、独特のニュアンスを帯びて発現してくるようです。



逝去の前年、「原水爆禁止宣言」を発表する戸田第2代会長。宣言は、核兵器を絶対悪とし、その存在自体を「人間」の名において厳しく断罪するものだった(1957年9月8日、横浜・三ツ沢の陸上競技場で)



1987年5月、モスクワで行われた核の脅威展。開幕式に出席した池田SGI会長は、核の脅威を訴え抜くことは「平和主義者、仏法者としての使命であり、責任であり、義務であるとともに、偉大なる権利でもある」と語った



「経済・技術・科学的秩序」への傾斜に「人間力」による歯止めを



 先に、修羅が増長していくのに反比例して、「他者」が矮小化されていくと申し上げました。それに対し、現代社会(とくに先進国)においては、「他者」の希薄化もしくは不在化という様相を呈してくるのではないかと思われます。

 近代経済学創始者であり、優れた文明批評的センスの持ち主でもあったJ・M・ケインズに、「わが孫たちの経済的可能性」という小冊子があります。

 1930年に講演原稿として発表されたもので、当時世界を覆っていた経済不況の最中、二つの悲観論――事態の悪化を防ぐには暴力革命しかないという悲観論と、事態は自分たちの意図を超えたものだからあえて人為的対応をすべきではないという無力感からくる悲観論――を駁したもので、政府による適切な介入と調整によって、失業の克服と経済成長は可能であり、「重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は、一〇〇年以内に解決されるか、あるいは少なくとも解決のめどがつくであろう」(『ケインズ全集第9巻』所収、宮崎義一訳、東洋経済新報社)と予見しております。

 戦争や人口増は、ケインズの予測の限りではなかったかもしれないが、少なくとも先進国に関しては、彼の予測はおおむね妥当していると思います。彼によれば、人間のニーズには、生きていく上で欠かせぬ「絶対的」なニーズと、「仲間たちの上に立ち、優越感を与えられる場合にかぎって感じるという意味での相対的」なニーズの二つがある。前者は自ずと限界があるが、後者は、その本質上限界はない。それに取り憑かれた人間は、常に他人と自分を比較しながら欲望を肥大化させ、追い続けて「飽くことを知らぬ」と。まさしく、“勝他”という修羅の属性と重なります。

 「絶対的」なニーズの確保は必要である。とくに、貧困問題を抱える発展途上国では最大かつ喫緊の課題です。

 だが先進国の示していることは、それだけでは十分ではない。人間は「衣食足りて」必ずしも「礼節を知る」とは限らない。長い間、「衣食」を求めて懸命に努力してきた人々は、そこでの習慣や道徳に慣れ親しんでしまっており、「衣食足りた」あとへの対応に戸惑わざるを得ない。「心情のない享楽人」(M・ヴェーバー『プロテ