「SGIの日」記念提言(上)(下) 2007年 1月26日 (3)

資本主義社会で広がる「貨幣愛」



 そうした戸惑い、不安につけこむように顔を覗かせてくるのが、人間社会とりわけ資本主義社会にとって宿命的存在である「貨幣」であります。「絶対的」なニーズにおける貨幣は、日々の糧を得るための手段であるが、「相対的」なニーズにあってはそうではない。貨幣は「財産」、大きくいえば「資本」として自己目的化し、絶えざる自己増殖を宿命づけられてくる。

 その自己増殖運動に巻き込まれた人間にとって、「――人生の享受と現実のための手段としての貨幣愛と区別された――財産としての貨幣愛は、ありのままの存在として、多少いまいましい病的なものとして、(中略)半ば犯罪的で半ば病理的な性癖の一つとして、見られるようになるだろう」(前掲『ケインズ全集第9巻』)と、ケインズは予想しております。

 こうした人間が貨幣愛に取り憑かれた状態を、他方ではマルクスが「物神崇拝」=注3=として精緻な分析を加えたことはよく知られています。時移りて、ケインズがいうところの「孫たち」の時代の今日、貨幣愛という金銭的価値の専横ぶりはどうか。あらゆる社会的価値、生活価値を従えて、傍若無人に振る舞っていることは、誰の目にも明らかでしょう。

 名だたる大企業に続発する不祥事、保険金詐欺、昨今の官製談合、青少年にまで悪影響を及ぼしているマネー・ゲームの風潮など、すべてとは言わないまでも、そのほとんどが、カネにまつわるものです。仏法で説く修羅界あるいはそれに隣接する餓鬼界(激しい欲望にとらわれた状態にあること)の生命が、ここでも「身長八万四千由旬」にまで増長してしまっている。その猖獗をきわめる様は、ケインズの「半ば犯罪的で半ば病理的な性癖」という、ややオーバー気味の発言さえ、控え目に見えてしまう。

 「常に彼れに勝れんことを欲し、人に下るに耐えず」という修羅界の住人は、“足るを知る”安住の地点など縁なき衆生であり、足場を欠く人間は、不安をまぎらわせるために、追い立てられるように貨幣愛を求め続けて飽くことを知らぬ。価値観の多様化が言われるなか、実は金銭的価値への一元化が進み、社会的価値や生活価値はいたるところで浸潤され、秩序感覚の奥深い次元で、一種の根腐れ現象が進行しているのではないか。“時代相”としてのモラル・ハザード(道徳の崩壊)が、折あるごとに指摘されるゆえんであります。昨年、「品格」という言葉に流行語大賞が与えられたのも、品格なき醜悪な時代相への反証、リアクションとはいえないでしょうか。

 とはいえ、貨幣愛を警戒するといっても、人間の交換関係の媒体としての貨幣を、社会から放逐することの不可能は、歴史が教えています。無理矢理に抑え込もうとすると、手痛いしっぺ返しにあう。20世紀の社会主義の実験が、おしなべて失敗に終わったことは、記憶に新しいところです。

 また、金銭的価値を、位階秩序の下位に(日本の江戸時代の“士農工商”のように)位置付けていた、近代以前の共同体的社会へ回帰することも、“自由”という近代的価値をこれほど知った以上、とうてい不可能なことです。

 であるならば、我々としては、資本主義というシステムと上手に付き合い、手なずけていく以外にない。「貨幣」や「資本」を“物神”と崇めたりせず、それらをコントロールしていく力を、個人的にも社会的にも蓄えていかねばならない。比喩的にいうならば、修羅界、餓鬼界を十界本有の構造の中に正しく位置付けていくように、人間生活の諸々の価値の位階秩序の中に、金銭的、経済的価値を、あるべき位置に据え直していく必要があります。

 昨年の提言で、モンテーニュの「私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのでは」(『エセー(三)』原二郎訳、岩波書店)との言葉に触れましたが、「貨幣」や「資本」を使っているようで、かえって使われているのは人間ではないのか――こうした問い返しこそ急務でしょう。そこに「人間力」回復の道も開かれるはずです。核の飽和状況を目の前にしたアメリカのケネディ大統領の、「人間がつくりだしたものである以上、人間がそれを解決できないはずがない」(「平和の戦略」、1963年6月10日、アメリカン大学卒業式)との訴えを、政治家特有のレトリックと受け取ってはならないと思います。



四つの秩序の混同が招く社会の乱れ



 その点、私が注目したのは、昨秋、「聖教新聞」の書評欄にも取り上げられた、フランスの気鋭の哲学者アンドレコント=スポンヴィル氏の『資本主義に徳はあるか』(小須田健/コリーヌ・カンタン訳、紀伊國屋書店)との問いかけであります。

 標題はもちろん反語で、資本主義は所詮道徳とは無縁であって、そこに有徳を求めるのは、木に縁りて魚を求めるようなものだ、と。突き放したような言い方ですが、中身は傾聴に値します。

 スポンヴィル氏は、人間社会を四つないし五つの秩序に区別する。第1は「経済―技術―科学的秩序」で、その駆動力は「可能なものと不可能なもの」という対立軸である。第2は「法―政治的秩序」で、「合法と違法」という対立軸、第3は「道徳の秩序」で「善と悪、義務と禁止」という対立軸、第4は「愛の秩序」で、対立軸は「喜びと悲しみ」となる――と分析する。信仰を持つなら、その上に「聖なる秩序」が想定されようが、さしあたり自分には無縁である、と。

 もとよりそれらは「区別」であって「分離」ではなく、それぞれ互いに重なり合っており、我々は四つの秩序を同時に生きている。それらがどう関係し合い、秩序づけられるかが重要であって、そこを混同するところから社会秩序の乱れが生じてくる。

 たとえばマルクスは、明らかに第1と第3の秩序を混同し、経済を道徳化しようとした。その結果、「一九世紀における麗しのマルクス主義ユートピアから、二〇世紀におけるだれもが知っている全体主義の恐ろしさへの移行」を招いてしまった。

 同じように、資本主義を道徳化しようとしても筋違いであって、資本の暴走を抑制する力は「外」(別の秩序)から加えられなければならない。資本主義そのものは、“対立軸”に駆り立てられ「可能」なものを求めて、どこまでも利潤を追い続けることを本領とする。貨幣価値の前では、雇用の確保や福利厚生などの生活価値は、二義的な意味しかもたない。

 のみならず、この「経済―技術―科学的秩序」に魅入られた核テクノロジストは、「可能」とあらば、悪魔的兵器の破壊力、殺傷力の強化に専心し、それがもたらすであろう惨状への想像力など持ち合わせていない。

 バイオ・テクノロジストは、「可能」とあらば、人間の条件を根底から突き崩すクローン人間など、生殖系列遺伝子操作にまで手を染めることに、何の逡巡も覚えないであろう。

 経済人、科学者がすべてそうだというのではない。四つの秩序を同時に生きているのだから、そんなことはありえないし、事実、経済界や科学界にも、良心的な人々は数多く存在します。しかし「可能―不可能」を対立軸にしていく限り、「人間」を置き去りにそこまでいってしまう必然性を内蔵しており、現にそれが杞憂ではない兆候が、いたるところに顔を覗かせている現実を、誰もが認めざるを得ないでしょう。

 「八万四千由旬」にまで増長、肥大化したエゴの世界では「他者」は限りなく希薄化、不在化していく。人と人との間に生きるのが人間であるとすれば「他者」がいなければ、「自己」もいない。つまり、徹頭徹尾「人間」が不在なのであります。そうした社会の息苦しさから逃れて、カルト宗教などに救いを求める若者たちに、おしなべて離人症的傾向が見られるといういくつかの調査結果も、当然のことかもしれません。



現代文明が直面する構造的危機

 

現代文明は、まさにこうした危機的状況に直面しているのであり、「経済―技術―科学的秩序」は、それを引き起こした張本人である「専門知識をそなえ技術を有した卑劣漢」の横行を、「内」から抑えていく力を持っていない。「外」から、主として第2の「法―政治的秩序」の側から規制していく以外にない。だが、第2の秩序も、法に触れさえしなければ……というずる賢い「合法的な卑劣漢」を制圧していく力を有せず、この場合も「外」から、主として第3の「道徳の秩序」の側から規制していくしかない。そして、この第3の秩序も、口舌のみの偽善者、独善家、つまり「道徳的な卑劣漢」の存在をどうしても許容してしまう体質がある。やはり、とはいっても道徳は「外」からの規制には本質的になじまないから、「それを補完し、いわばうえからあける役割をはたすもの」として、第4の「愛の秩序」が要請される。しかし、同じ徳目をうながすにしても「道徳の秩序」が、外発的な義務付けに傾きがちなのに対し、「愛の秩序」は、あくまで内発的な喜び、充足感であることが決定的に異なる。

 こうしたプロセスをたどってみると、たとえば、ガンジーの「宗教は政治と全く無関係であるという人は宗教の何たるかを知らない」(『抵抗するな・屈服するな』K・クリパラーニー編/古賀勝郎訳、朝日新聞社)との言も、深く首肯できます。

 以上が、私のコメントをはさんだ『資本主義に徳はあるか』の要旨ですが、たしかに金融主導のグローバル資本主義の現状が、「可能なものと不可能なもの」(儲かるか、儲からないか)という、ニュートラルで無機質な対立軸を駆動力としているという冷厳かつ身も蓋もない事実の分析など、首肯させられる点が多い。