「SGIの日」記念提言(上)(下) 2007年1月26日 (4)

健全な社会変革の基盤は一人一人の「人間革命」の中に

 

とりわけ説得性が感じられたのは、第1にそうした立て分けが、私どもの人間主義的アプローチ(取り組み)に際し、きわめて有効であろう、ということです。

 一例をあげれば、先に“人間主義の行動準則”に触れましたが、そこで強調した「結びつき」による人類意識の高揚は、明らかにスポンヴィル氏のいうところの第3、第4の秩序に発するものです。

 しかし、それが現実の「荊棘」である悪との戦いの場で、そのまま通用するかといえば、なかなか難しい。「専門知識をそなえ技術を有した卑劣漢」を抑え込むには、対話や説得によるよりも、「法―政治的秩序」の側からの規制の方が、はるかに(少なくとも短いスパンで見れば)有効性をもつことは認めざるを得ません。

 かつて“核状況における人間の生き方”をめぐるシンポジウム(『日本の生き方と平和問題』所収、岩波書店)で、核状況における「人間の問題というのは、倫理的問題ばかりでなく、政策決定者の合理性の問題だと思う」(加藤周一氏)、「個人の良心、個人の自覚もさることながら、現代ではやはり国家としての政策の転換を求めていく方向において倫理の問題をどう結びつけるかということが、差し迫った課題」(豊田利幸氏)等、識者の発言がなされてきたゆえんです。人類意識という普遍的徳目は、第1の秩序への直接介入よりも、第2の秩序を下支えするものとして機能する時、最も本領、有効性を発揮するからです。

 第2に、私が注目したのは、人間らしい秩序を形成していく過程で、著者が「一人の人間」にスポットを当て、その人間重視のスタンスが決して揺らぐことがない点です。

 著者は、第1の秩序から第4の秩序への流れを、「優越の上昇的序列」としていますが、「上昇の方向へと進んでいく力をもつのは個々人だけ」と述べ、上昇を担うパイオニア(開道者)としての役割を、あげて「一人の人間」に期待しています。「一人の人間」の覚醒なくして「優越の上昇的序列」はありえず、その上昇過程を通じて、「人間」は次第に重みを増していく。薄かった“影”が濃くなっていく。その過程とは、「経済―技術―科学的秩序」の「人間」不在から、徐々に「人間」を復権、顕在化させゆく過程にほかなりません。



パーソナルな宗教に託された期待



一人一人の人間の資質の向上なくして社会の変革もなければ、よりよい秩序もありえない。それは当たり前のように見えても、C・ユングが「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてであるのに、それを体現するかわりに、全体主義のデーモンを喚び出してしまう」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)と警告しているように、組織への依存、集団への埋没は、人類があまりにもしばしば陥ってきた落とし穴なのであります。

 そして、全体主義の系譜が示しているように、「人間」不在が高ずれば高ずるほど、人々はデーモンやサタンの「爪」の餌食になりやすい。科学技術が高度に発達した情報化社会、大衆化社会など、悪魔に魅入られた煽動家たちの暗躍する格好の場ではないでしょうか。

 「微々たる一歩」とは、決して微々たるものではない。ユングの言うように、それを欠けばいかなる変革の試みも砂上の楼閣と化すという意味で、あらゆる運動の原点であり、“画竜点睛”であります。それはまた、私どもの永遠の課題である「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とも、深く回路を通じているのであります。

 かつて、日本哲学界の重鎮であった故・田中美知太郎氏は、“パーソナルな宗教への期待”として、パーソナルな宗教である高等宗教も、巨大化してくるにつけ、社会宗教的なものへと逆転する可能性を指摘しつつ、創価学会の運動をこう評価しておられました。

 「『人間革命』の著者池田大作氏が高等宗教としての仏教の立場でそのパーソナルな面を更に新しく前進させる試みをされていると聞いているが、その成功を祈りたい」(「聖教新聞」1977年5月1日付)と。

 パーソナル(個人的)な「一人の人間」に徹底してスポットを当て続けること――ここに、私どもの運動の原点があります。アルファ(出発点)でありオメガ(究極)であります。そこから、いささかたりとも軸足をずらさなかったからこそ、創価学会・SGIは、今日のような発展をすることができたのであります。また、今後いかなる時代がこようとも、この根本軌道から外れるようなことがあってはならない。それは「一人を手本として」(御書564ページ)と言明された宗祖日蓮大聖人の精神からも違背してしまうからであります。

 こう見てくれば、「経済―技術―科学的秩序」の力学が、空前の勢いで席巻するなか、「優越の上昇的序列」という人間回復、人間復興への道を喘ぎ登ろうとしている人々にとって、何が必要なのか、その文明論的課題に私どもの運動がどう呼応し、貢献していけるのか、自ずから明らかとなってくるでしょう。「奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」との恩師の「宣言」は、そうした今日的課題までも照射していたと、私は信じてやみません。今後とも、その誇りと確信をもって、わが道を、平和への王道を邁進していきたいと思います。((下)に続く)



語句の解説

 注1 三毒

 仏法で説かれる三つの煩悩のこと。貪は「度を越えた、激しい欲望」を、瞋は「激しい怒りや憎しみ」を、癡は「生命の法理に暗いこと」を指す。仏法では、こうした生命の濁(にご)りが、人間に苦しみや不幸をもたらすだけでなく、経済の混乱、戦乱の頻発、疫病の流行など社会への災(わざわ)いを生む原因ともなると説いている。

 注2 十界本有

 悟りの境界である仏界と、凡夫の九種類の迷いの境界である九界が元来、ともに具わっていると説いた仏法の深義。法華経では、十界のそれぞれが固定的で別々の世界に存在するのではなく、本来、一個の生命に具わるものであることを明らかにし、地獄の苦しみの生命や、修羅にみる勝他の生命なども自ら統御し、変革できるとの法理を示した。

 注3 物神崇拝

 商品・貨幣・資本といった「物」を、あたかも固有の神秘力をもつものであるかのように崇拝すること。マルクスの『資本論』の記述に由来した言葉で、「物」がひとり歩きを始め、逆に「人間」を支配するようにみえる転倒的現象を指す。商品経済においては避けることのできない現象とされている。