「SGIの日」記念提言 (7)

軍国主義との対峙の中で信念を貫く

 以上、核兵器を中心に軍縮の問題に関して、論じさせていただきました。

 続いて、21世紀の世界を展望し、長らく対立や緊張が続いてきたアジアに焦点を当て、今後の地域協力の目指すべき方向性などについて述べたいと思います。

 そこで本題に入る前に、創価学会及びSGIの源流にさかのぼって、私どもがこれまでアジア太平洋地域の平和と発展のために行動してきた歴史について、この場を借りて総括的に振り返っておきたい。

 そもそも、私どもの平和行動は日蓮大聖人の仏法を貫く「人間主義」の理念に基づくものですが、創価学会平和運動の思想的淵源は、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」、さらに今から100年も前に牧口初代会長が著した『人生地理学』にまでさかのぼります。

 同書の核心は、アジアをはじめ世界の国々が、他国の犠牲の上に自国の繁栄を求める“弱肉強食的な生存競争”から脱し、積極的な国際協調を通じた他国を益しつつ自国も益する“人道的競争”への転換にありました。

 20世紀初頭(1903年)、帝国主義植民地主義が跋扈する時代にあって、牧口会長は「われわれは生命を世界に懸け、世界を我家となし、万国をわれわれの活動区域となしつつあることを知る」(『牧口常三郎全集』第一巻、第三文明社。現代表記に改めた)として、互いを傷つけ合うのではなく、ともに高め合う関係を築かねばならないと強調したのです。

 また日本についても、“太平洋通り”に軒をつらねる一国と位置付け、韓・朝鮮半島や中国へ向けて政治的軍事的な膨張を強める政策に警鐘を鳴らしました。

 その後、牧口会長が“自他ともの幸福”を追求する人道的競争の時代を教育の力で実現させる意義も込め、弟子の戸田第2代会長とともに心血を注ぎ、完成させた大著が『創価教育学体系』です。

 創価学会は、この師弟の精神の結晶ともいうべき書の発刊(1930年11月18日)をもって、創立の日を迎えたのであります。

 当然のことながら、こうした「国家」よりも「人間」「人類」に軸足を置く行き方は、当時の軍国主義と真っ向から対峙するもので、次第に当局による弾圧も激しさを増すようになりました。そしてついに1943年7月、二人は治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕され、投獄されたのです。しかし最後まで屈することなく、信念の旗を掲げ続けました。

 高齢であった牧口会長は翌44年11月18日に獄中で亡くなり、戸田第2代会長は45年7月3日に出獄するまでの2年に及ぶ獄中生活のために健康を著しく害しました。

 戦後、私が戸田会長を師と定め、創価学会に入会したのも、苛烈な獄中生活を強いられながらも軍国主義と最後まで戦い抜いた人物だったからにほかなりません。

 私自身、戦争で2度も家を失い、4人の兄たちは戦争にかり出され、長兄がビルマ(現ミャンマー)で戦死しました。

 その長兄が一時帰国していた時、「戦争は美談なんかじゃないぞ。日本軍は傲慢だ。あれでは中国の人びとがかわいそうだ」と語った言葉は今も耳朶から離れません。

 こうした戦時中の体験と、戸田会長に師事したことが、私の平和行動にとってのかけがえのない原点となりました。

 戸田第2代会長は戦後、師である牧口初代会長の遺志を胸に、創価学会の再建に全力を注ぐ一方で、アジアの平和と民衆の幸福を強く願い、その道を開くことが日本の青年たちの使命であると訴えていました。

 「世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威におびやかされているではないか」との青年への烈々たる訴えは、先の「原水爆禁止宣言」や、驚くほど時代を先取りした「地球民族主義」の理念へと結実しました。

 戸田会長は残念ながら、生涯を通じて海外に行く機会を得ることはありませんでした。しかし、私にこう遺言されました。“この海の向こうには大陸が広がっている。世界は広い。苦悩にあえぐ民衆がいる。戦火におびえる子どもたちもいる。だから君が、世界へ行くんだ。私に代わって!”と。

 師の逝去から2年後の1960年、第3代会長に就任した私は、すぐさま世界平和に向けての行動を起こし、10月2日、亡き師の写真を上着の内ポケットに納め、北南米訪問に出発しました。

 その第一歩としてハワイを選んだのは、真珠湾攻撃の悲劇の舞台となった場所で、歴史の教訓を胸に刻み、世界不戦の潮流を高めゆく決意を留めるためでした。

 そして、国連誕生の地であるサンフランシスコなど各都市を回り、ニューヨークでは国連本部を視察しながら、国連を軸にした世界平和の構想を温めたのであります。

 アジアの平和願い提言を相次ぎ発表

 翌61年には、香港、セイロン(現スリランカ)、インド、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、カンボジアを訪問し、戦争で犠牲となった方々の冥福を各地で祈念しつつ、アジアの平和への思索を深めました。

 釈尊が悟りを開いたとされるインドのブッダガヤに立ち寄った際には、“戦争のない世界を築くには、東洋をはじめ世界の思想・哲学を多角的に研究する機関が必要となる”との思いを強め、62年に「文明間の対話」と「宗教間の対話」を進めるための機関として東洋哲学研究所を設立しました。

 冷戦時代から分断の世界結ぶ人間主義の「対話」に徹して挑戦



 また63年に誕生した民主音楽協会も、タイ訪問の折に設立構想を明らかにしたものです。平和の礎は民衆同士の相互理解にあり、そのためには芸術や文化の交流が大きな意味を持つとの確信からでした。

 このアジア各国の訪問を通じて実感したのは、東西冷戦による対立構造がアジアにも暗い影を落としていることでした。ほどなくして65年2月、アメリカ軍の大規模な北爆によって、ベトナム戦争が全土に拡大しました。

 それは、私がライフワークとしてきた小説『人間革命』の執筆を、復帰前の沖縄の地で開始した2カ月後のことでした。

 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」

 小説の冒頭で警鐘を鳴らした戦争の悲劇が、アジアの地で再び繰り返されてしまったことに強い憤りを禁じ得ませんでした。

 戦闘が激しさを増し、アメリカと中国との直接対決の事態さえ懸念されるほど緊張が高まる中、一日も早く戦争を終わらせるべきであるとの思いで、66年11月に即時停戦と関係国による平和会議の開催を呼びかける提言を行ったのに続き、67年8月には北爆の停止を改めて強く訴えたのであります。

 そしてまた、中国の国際的な孤立状態を解消することが、アジアの安定のみならず、世界の平和にとっても絶対に欠かせないとの信念に基づいて、68年9月8日に「日中国交正常化提言」を行いました。

 中国敵視の風潮は当時の日本で根強く、激しい非難の嵐にさらされました。

 しかし私には、世界の2割近くの人口を抱える中国に、国連の議席も認めず、隣国である日本が外交関係を断絶した状態を続けるのは明らかに異常であるとの信念がありました。加えて私の胸には、「中国が、これからの世界史に重要な役割を果たすだろう。日本と中国の友好が、最も大事になる」との恩師の言葉が響いていたのです。

 中国、ソ連、米国の緊張緩和に尽力

 1970年代に入ってからは、分断化が進む世界に友情の橋を懸けるべく、各国の指導者や識者との対話を本格的に開始しました。

 70年にヨーロッパ統合運動の先駆者であったクーデンホーフ・カレルギー伯と、のべ十数時間、太平洋文明への展望などについて語り合ったのに続き、20世紀最高峰の歴史家であるトインビー博士と、世界統合化への道など多岐にわたるテーマをめぐって2年越しの対談(72年と73年)を行いました。

 その際、トインビー博士は、私に遺言を託すかのように、こう言われました。

 「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話をさらに広げていってください」と。

 以来、今日まで、人類の未来のために行動しておられる世界の識者の方々と宗教や民族や文化の違いを超えて対話を広げ、43点の対談集を発刊してきたのであります。

 さらに73年1月には、ニクソン大統領宛に、ベトナム戦争終結を呼びかける書簡を、キッシンジャー氏(当時、大統領特別補佐官)を通じて届けました。

 また同年、重ねて大統領宛に、アメリカの果たすべき役割についてまとめた提言を送りました。そこで私は、建国以来育まれてきた輝かしい精神遺産に敬意を表しつつ、“アメリカがその良き特質を生かし、平和と人権と共存のリーダーシップを発揮しなければ、世界は本当の意味で変わることはない”とのメッセージを込めたのです。

 私が後年、アメリカに平和研究機関のボストン21世紀センターを創立(93年9月)し、アメリ創価大学を開学(2001年5月)した理由の一つも、そうした年来の信念に由来するものでした。

 74年から75年にかけては、中国、ソ連アメリカを相次いで訪問し、各国首脳との直接対話に臨み、民間人の立場から緊張緩和への道を模索しました。米ソ対立に加え、国境を接する中ソが対立するという、世界を三分化しかねない危機が深まっていたからです。

 74年5月に初訪中した折、北京の人々がつくった防空壕を見学し、中国の人々がソ連に脅威を感じている様子を目の当たりにした私は、同年9月に初訪ソし、コスイギン首相に、こう切り出しました。「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と。するとコスイギン首相は、「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と断言されました。

 同年12月、このメッセージを携え、再び訪中した私は、周恩来総理とお会いし、日中両国がともに手を取り、世界の平和と繁栄のために行動することの重要性について語り合いました。

 そこで周総理から「中国は、決して超大国にはなりません」との言葉を聞き、先のコスイギン首相の言葉とあわせて、中ソの和解が遠からず実現することを確信しました。事実、歴史はそう動いたのであります。



牧口・戸田両会長の教育哲学を源流に開学したSUA(アメリ創価大学)。2005年5月には第1回卒業式を記念し、「『平和主義』の世界の指導者育成」などの言葉を刻んだ「SUA4指針の碑」の除幕式が行われた