小説「新・人間革命」 3月17日 宝塔11

学生部員会に出席した山本伸一は語った。

 「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」

 盛山光洋と桜原正之は、伸一の言葉に、世界の平和を建設しゆく沖縄の使命を感じた。

 また、指導する伸一の言々句々から、“自分たちを大成長させ、絶対に幸福にしよう”という、強い、深い思いが伝わってきた。

 最後に伸一は、「諸君は、広宣流布の獅子として立ってもらいたい」と述べたあと、一人ひとりに鋭い視線を注ぎながら言った。

 「仏法は、絶対に間違いありません。まず、十年間、私についていらっしゃい」

 盛山も、桜原も、この時、腹を決めた。

 “よし、山本先生につき切っていこう!”

 決意は一瞬である。しかし、それが、未来を、生涯を、決するのだ。

 決意なくして、人生の飛躍はない。

 大学時代は、瞬く間に過ぎていった。

 それぞれ就職も決まった。盛山は銀行に、桜原はテレビ局に勤めることになった。

 その二人に、本部職員の試験を受けてみないかとの話があった。

 彼らは、迷いなく、職員の採用試験を受けた。結果は合格であった。

 盛山は沖縄本部の事務局へ、桜原は聖教新聞社の沖縄の支局に配属されたのである。

 二人は、大学一年の時に聞いた、沖縄から「平和の波が起こらねばならない」との伸一の言葉が頭から離れなかった。

 あの沖縄戦では、十数万人といわれる県民が、命を失っていた。近隣のどの家でも、犠牲者を出していた。

 そして、広大な米軍基地が今なお存在し、そこから、多くの兵士たちがベトナム戦争に送り込まれていったのだ。

 沖縄は“戦後”ではなく、まだ“戦中”といってよかった。

 それでも沖縄戦の体験は次第に忘れ去られ、風化しつつあったのだ。

 それだけに、盛山たちは、「生存の権利を守る青年部アピール」を受けて「沖縄決議」を行うにあたり、「戦争体験記」の発刊を入れるように主張してきたのである。