小説「新・人間革命」 宝塔13 3月20日

 「真実の言葉ほど、強力なものはない」(注)とは、フィリピンの格言である。

 その真実を語ってもらうことが、いかに難しいかを、青年たちは痛感したのである。

 また、戦争体験を聞き出せても、時系列があいまいであったり、話が前後で食い違ってくることも珍しくなかった。そんな時には、何度も取材を重ねるのである。

 粘り強さが求められる作業であった。

 何事を成し遂げるにも、不可欠な条件は忍耐ということだ。疲れたからといって井戸を掘る手を途中で止めれば、水を得ることはできない。

 聖教新聞の沖縄版で、戦争体験の連載が始まったのは、一九七三年(昭和四十八年)の八月三日付からであった。タイトルは「戦争を知らない子供達へ」である。

 この連載の最初に登場したのは、「ひめゆり部隊」で生き残った婦人であった。

 「ひめゆり部隊」とは、県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒で編成された学徒看護隊である。

 婦人は、学会員ではなかったが、取材に快く応じてくれた。

 彼女の話は、衝撃的であった。

 ――配属された陸軍病院では、兵士の屎尿を取ったり、亡くなった患者の死体運びなどが、彼女たちの仕事となった。

 敵弾が飛ぶなか、恐怖に震えながら、患者に食事を運ぶこともあった。

 米軍が間近に迫り、病院の移動が決まった時、歩けない患者は残すことになった。

 彼女は、“残った患者たちに、衛生兵が青酸カリ入りのミルクを飲ませた”と聞かされる。しかも、その人たちは「戦死」とされたのである。

 米軍の攻撃で、生徒も次々と死んでいった。

 壕に身を潜めていた彼女たちは、どうせ死ぬなら皆で一緒に死のうと決めて、米軍が壕を爆破するのを待った。だが、壕は爆破されなかった。

 艦砲射撃のなか、アダンの葉の下に隠れて暮らした。

 食糧が残っているという壕に行ってみると、重なり合うようにして、たくさんの骨があった。死後、火炎放射器で焼かれたのだ。

 その壕こそ、現在、「ひめゆりの塔」が立っている場所であった。