小説「新・人間革命」 宝塔15 3月22日

末娘を亡くした婦人は、残った子どもたちを育てながら、“主人さえいれば”と、いつも思い続けた。

 そして、後悔に襲われるのである。

 「たとえ主人は戦死を覚悟していても、私がしがみついて『死んではいけない。どんなことがあっても生き延びてください』と叫び続けておけば、あるいは思い返して、生きていたかも知れない」

 ところが、その一言を口にできなかったのである。彼女は、そんな自分を、「私も戦争協力者」であったのだと、さいなみ続けてきたのだ。

 何の罪もない、けなげな庶民の女性に、癒やし難い心の傷を残してしまう戦争の残酷さを、彼女の手記は訴えている。

  

 「戦争を知らない子供達へ」の連載は五十八回に及び、一九七三年(昭和四十八年)の年末まで続いた。さらに、翌七四年(同四十九年)三月から、「続・戦争を知らない子供達へ」の連載が続けられた。

 そして、この連載を中心に、戦争体験記として一冊の本にまとめることになったのである。

 本の題名は『打ち砕かれしうるま島』とつけられた。学会歌として全国の同志に親しまれてきた「沖縄健児の歌」の一節を、題名にしたのだ。

 『打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)は、沖縄戦終結から二十九年後の七四年の六月二十三日に、「創価学会青年部反戦出版委員会」による「戦争を知らない世代へ」の第一弾として、発刊されたのである。

 青年たちの反戦平和への熱き血潮と、戦争体験者による涙の証言の結晶ともいうべき、この本の反響は大きかった。

 二度と戦争を起こすまいとの誓いの声が、数多く寄せられ、地元紙でも大きく取り上げられた。

 そして、この一冊が、各県の青年部による、反戦出版の突破口を開いたのである。

 「わが県も、ぜひ戦争体験の証言集を出したい」と、各県の青年たちが、次々と名乗りをあげたのだ。

 「第一歩を踏み出せば、第二歩はたやすく踏み出せる。誰かが先頭に立てば、これに続く人にこと欠かない」(注)とは、伸一が交友を結んだ中国の著名な作家である巴金の名言である。



引用文献:  注 巴金著『無題集』石上韶訳、筑摩書房