小説「新・人間革命」  12月19日 信義の絆43

キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。

 しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。

 キッシンジャーは、現実の大地にしっかと立って、理想の松明を掲げ持ってきた。だからこそ、不可能だと思われてきた現実を、次々と変えることができたといえよう。

 山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)七月、キッシンジャー大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを開いたことが忘れられなかった。

 それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。

 また、米ソ戦略兵器制限交渉でも大いに手腕を発揮した。

 ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。

 伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。

 キッシンジャーは一九三八年(昭和十三年)、十五歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。

 当時、ドイツはヒトラーの政権下にあり、ユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。

 財産の国外持ち出しは許可されず、一家は、着のみ着のまま、アメリカにやってきたのだ。

 しかし、それでもまだ幸運であった。ドイツに残った親族のうち、十三人以上の人が強制収容所で亡くなっているのである。

 時代の激浪に翻弄されながら、一家は懸命に生きた。

 父親は教師であったが、アメリカでは教職に就くことはできなかった。工場で事務を担当し、必死に働いた。それでも生活は苦しかった。

 キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春であった。

 だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。

 「肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる。ゆえに、青年は、安逸を求めてはいけない」とは、戸田城聖の指導である。