小説「新・人間革命」  12月26日 信義の絆49

先進国蔵相会議などに出席するため、前日、ワシントン入りした大平正芳蔵相から山本伸一に、日本大使館で会いたい旨の連絡があったのである。

 大平大臣とは、初対面であった。

 伸一が大使館に到着し、あいさつをすますと、大平は、淡々とした口調で切り出した。

「日中平和友好条約について、山本会長のご意見をお聞きしたい」

 大平は、前月の一九七四年(昭和四十九年)十二月に、三木内閣の大蔵大臣となった。

 七二年(同四十七年)に日中国交正常化を果たした時の田中内閣では外務大臣を務め、日中航空協定にも尽力してきた。

 そして、いよいよ日中平和友好条約の締結が、彼にとっても最大のテーマとなっていたのだ。

 平和友好条約については、七二年九月に発表された日中共同声明のなかで、締結に向けて交渉していくことが明記されていた。

 七四年十一月には、両国の政府間で、平和友好条約のための第一回予備交渉が行われ、この七五年(同五十年)一月に、再開されることになっていたのである。

 三木首相も平和友好条約の締結を望んでいた。だが、党内では難色を示す勢力が強く、前途は多難であった。

 それを押し切るには、三木首相の党内基盤は脆弱すぎた。

 日中友好を推進することは、命がけの作業といっても過言ではない。

 大平は、外相として国交正常化を推進していた時には、自宅に脅迫状も投げ込まれたという。

 しかし、彼は、「たとえ八つ裂きにされても、やる」との壮絶な決意を固めて、事に当たってきたのである。

 日中航空協定でも、党内の反対派から、何度もつるし上げられた。

 伸一もまた、日中友好の架橋作業に突き進んだ日から、幾度となく、脅迫や非難、中傷の嵐に打たれ続けてきた。

 それだけに、大平蔵相の心も、決意もよくわかった。

「信ずるところある我々は、何を恐るべきことがあるか」(注)とは、ユゴーの叫びであり、伸一の信念でもあった。

 大業に生きるならば、苦難を覚悟せねばならぬ。勇気なくして大願の成就はない。



引用文献: 注 ユゴー著『レ・ミゼラブル豊島与志雄訳、岩波書店