小説「新・人間革命」 SGI21  1月26日

立ち上がって盛んに拍手を送るメンバーの胸には、山本伸一の「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください」との言葉がこだましていた。

 皆が、その決意をかみしめていた。

 西ドイツ(当時)から、ただ一人参加していたディーター・カーンは、何度もメガネを取っては目頭を拭った。彼は、山本SGI会長の平和建設への熱い心に、涙が込み上げてきて仕方がなかったのである。

  

 カーンは一九三〇年(昭和五年)に、ポーランド国境に近い、当時はドイツであったブレスラウ(現在はポーランドブロツワフ)で生まれた。

 彼が八歳の時、ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻を開始した。たくさんの戦車が轟音を響かせて進撃していくのを怯えながら見送った。それは、第二次大戦の始まりであった。

 小学校の校長であった彼の父親も徴兵され、ポーランド侵攻作戦に参加させられた。

 カーンは十歳になると、ナチスの少年団「ユングフォルク」に入団した。ドイツ民族がいかに優れているかや、敵国に対する憎悪、軽蔑を徹底して叩き込まれた。

 教育は諸刃の剣である。誤った教育ほど、恐ろしいものはない。

 「世界を改革するのは教育を改革することなのです」(注)――これは、ナチスと戦ったポーランドの教育者コルチャックの命の叫びである。

 しばらくして父親は帰還したが、情勢が悪化すると、再び徴兵された。今度は、千キロほど離れたドイツ北方にあるヘルゴラント島の守備隊として派遣された。

 ドイツ軍はソ連にも侵攻した。スターリングラード(現在はボルゴグラード)では激しい攻防戦が展開され、四三年(同十八年)二月、市は廃墟と化したが、ソ連軍はドイツ軍を打ち破ったのである。

 この勝利を機に、ソ連軍は反撃に転じ、ポーランドからドイツへと迫ってきたのだ。

 四五年(同二十年)一月、カーンは母と姉の三人でブレスラウを出て、避難民の列に加わり、父親のいるヘルゴラント島をめざした。

 途中、ソ連軍の空襲に遭った。戦火のなかを必死になって逃げた。



引用文献:  注 近藤康子著『コルチャック先生』岩波書店