小説「新・人間革命」SGI32  2月8日

シンガポールには、一九六三年(昭和三十八年)八月に地区が結成されていた。シンガポールも加わり、マレーシア連邦が発足する直前のことである。

 しかし、高康明が入信した時には、地区部長であった日本人が既にシンガポールを離れており、高の周囲には信心の先輩はいなかった。

 彼は、日本で教えられた通りに、懸命に唱題に励んだ。

 最初に信心の体験をつかんだのは、一緒に題目を唱えるようになった妻であった。彼女は内臓疾患で八回も手術を重ねてきたが、信心を始めると、目に見えて健康になっていったのである。

 この体験を、二人は喜々として語って歩いた。

 しかし、なぜ、そうなるのか、なぜ日蓮大聖人の仏法には功徳があるのかを聞かれると、説明はしどろもどろになった。

 功徳を実感し、語るべき体験もあるのに、意を尽くせないことがもどかしかった。

 高は、日本から学会の書籍や聖教新聞を送ってもらい、教学などを懸命に学びながら、仏法対話を重ねていった。

 大聖人は「行学の二道をはげみ候べし、行学た(絶)へなば仏法はあるべからず」(御書一三六一ページ)と仰せである。実践と教学とは、広宣流布を進める車の両輪である。

 高は事業を拡大し、マレーシアのペナンにも支店を出していた。

 彼は、ここでも人びとの幸せを願い、果敢に仏法対話に励んでいった。

 六五年(同四十年)、シンガポールはマレーシアから分離・独立する。

 高は、六七年(同四十二年)六月、シンガポール地区の地区部長に就任した。翌年には、後にマレーシアの中心者となる柯文隆が入信している。

 六九年(同四十四年)八月、シンガポール支部が結成される。支部長になったのは、技術協力事業の仕事で日本から派遣されていた大峰嘉雄という壮年であった。

 高康明はこの時、マレーシアのクアラルンプール支部支部長となったのである。

 人事の相談を受けた彼は、キッパリと言った。

 「広宣流布のためですから、どこへでも通います。苦労を避けていたのでは、仏道修行ではありません。その精神を忘れたら、信仰の堕落であると思っています」