小説「新・人間革命」 SGI42 2月21日

年が明けた一九七四年(昭和四十九年)の一月下旬、南忠雄は、単身、ガーナへと旅立った。

 一年ほどしてから、妻を呼び寄せることになっていた。

 南はガーナ広布への決意に燃えて、ガーナの首都アクラに立った。

 彼の立場は、聖教新聞の常駐特派員であるとともに、組織的にはガーナの指導長である。

 当時、ガーナのメンバーは二百五十人ほどであった。中心者である現地人の青年は、ある程度、日本語もわかった。彼の妻が日本人であった。

 南は、しばらく、この中心者の家に世話になることになった。

 街は道路整備が進んでいたが、建物は二階建て程度で、高層ビルはほとんどなかった。街の中心部を外れると、トタン屋根の家が並んでいた。

 赤道に近いガーナは、さすがに暑かった。彼が着任したころは乾期で、ハルマッタンと呼ばれる乾燥した風が吹き、温度は四〇度を超えることもあった。

 買い物をするにも、直射日光を浴びずに最短距離ですませる工夫を考えなければならなかった。

 最も閉口したのが電話である。回線が少ないために、国際電話を申し込み、指定された日時を待つ。ところが、その日時になっても、つながらないのだ。

 ガーナ着任の知らせも、結局、国際電報で本社に伝えたのである。

 新聞の原稿はエアメール(航空便)で送った。日本に着くまでに十日以上かかった。船便だと一カ月半はかかってしまう。

 彼が困惑したのは給料の受け取りであった。日本から海外の銀行を経由して、現地の指定した銀行に届くのだが、銀行に行くと、「来ていません!」というのだ。

 「そんなはずはない」といっても、それ以上、調べてはくれなかった。

 あとで判明したところでは、途中の銀行が作った書類に不備があって、振り込まれなかったようだ。

 南は当初、すべて日本と比べて、日々、落胆ばかりしていた。しかし、ある時、その間違いに気づいた。

 “日本を基準にものを考えていたのでは、いつまでたってもガーナ人の心はわからない。「郷に入っては郷に従え」である。日本と比較して一喜一憂するのはやめよう”