小説「新・人間革命」 人間外交34  4月10日

戦争の脅威を増幅させるものは、指導者相互の拭いきれない不信感といえよう。

 その不信の根源は、仏法で説く「元品の無明」にある。元品とは根本、無明とは迷いである。

 本来、一切衆生は仏性を宿し、妙法蓮華経の当体であると、仏法では教えている。

 しかし、その道理がわからず、信じることができないという生命の迷いが、元品の無明である。

 相互不信、疑心暗鬼の根本要因もここにある。

 「人間に対する信頼を失うことは罪である」(注)とは詩聖タゴールの警鐘である。

 山本伸一は、一切衆生に仏の生命が具わっていると説く仏法思想を、世界に弘めることの大切さを痛感してきた。

 また、常に相手の仏性に語りかけ、目覚めさせる思いで、米ソ首脳とも誠心誠意、平和への語らいに努めてきた。

 不信と反目の心を破り、信頼と友情の心を開いてほしいとの祈りにも似た思いで――。

 ここで伸一は、トウ小平副総理に、日中平和友好条約についての中国の見解を尋ねた。

 一九七二年(昭和四十七年)に発表された日中共同声明では、アジア・太平洋地域において覇権を確立しようとするいかなる国の試みにも反対することが謳われている。

 ところが、日中平和友好条約では、この反覇権条項を除こうとの意見が、日本側の一部から出ていたのだ。

 「覇権を確立しようとする国」とはソ連を指し、これを日中平和友好条約に盛り込めば、日ソ関係を壊すというのが理由であった。

 前年の九月、伸一がソ連を初訪問した折には、ソ連共産党中央委員会国際部の日本担当であるI・I・コワレンコがホテルに伸一を訪ねてきて、この文言は、ソ連を敵視するものだと語った。

 そして、日中平和友好条約には、この反覇権条項は除くべきだと、強硬に訴えたのである。

 伸一は悠然と答えた。

 「日本と中国が、どんな平和友好条約を結ぼうと、振り回される必要はないではありませんか。

 ソ連は日本と、もっと親密な、もっと強い絆の平和友好条約を結べばいいではないですか。

 大きな心で進むことです。本当の信頼を勝ち取ることです」



引用文献:  注 我妻和男著『人類の知的遺産61 タゴール講談社