小説「新・人間革命」 人間外交38  4月16日

トウ小平は、文化大革命では「走資派」(資本主義に進む反革命分子)と批判され、失脚した。

 それは、過酷な、屈辱の日々であった。大衆の前で吊し上げられ、軟禁・監禁生活を強いられた。また、三年余にわたって下放された。

 累は家族にも及び、長男は迫害を受け、下半身不随となった。次男も農村に送られ、厳しい労働に従事させられた。

 誰もが、これで、トウ小平の政治生命は絶たれたと思った。

 しかし、周総理はトウ小平を陰で庇護し、じっと時を待って、彼を政府の中央に引き戻したのだ。

 その復活から一年後に、山本伸一はトウ副総理と会談し、さらに、周総理と会ったのである。

 周総理は、伸一と会談した十八日後の一九七四年(昭和四十九年)十二月二十三日、毛沢東主席のいる湖南(フーナン)省の長沙(チャンシャー)に向かった。

 トウ小平に、さらに大きな権限を与える了解を求めるためである。

 病身の周総理にとって、この長旅は命がけであった。総理の足はふらつき、手は震えていた。

 飛行機に搭乗するにも、服務員の補助が必要であった。機内で出されたアメの包みをむくことも困難であったという。

 だが、なんとしても毛主席に会って、未来のために、四人組を抑える流れをつくろうと必死であった。

 周総理は毛主席の了承を得た。そして、翌月の第四期全国人民代表大会トウ小平は第一副総理、軍事委員会副主席などの要職に就いたのである。

 自由に動けない周総理に代わって、トウ副総理は、あらゆる責任を担って、懸命に働いた。

 総理が亡くなる四カ月前の一九七五年(昭和五十年)九月の手術の折のことであった。

 総理は言った。

 「トウ小平同志は来ているか」

 トウ副総理が急いで側によると、総理は彼にじっと視線を注ぎ、やっとの思いで差し出した手で、トウの手を握った。

 総理は、力を振り絞るようにして語った。

 「この一年、よくやったな。私よりも強くなった……」

 感動がトウを貫いた。

 「士は己を知る者の為に死し……」(注)とは、『史記』に書かれた有名な一節である。



引用文献:  注 水沢利忠著『新釈漢文大系第89巻 史記 九(列伝二)』明治書院