小説「新・人間革命」 人間外交39 4月17日

翌一九七六年(昭和五十一年)一月、周恩来総理が死去した。四人組はトウ小平に攻勢をかけ、彼は、またしても失脚するのである。

 しかし、九月に毛主席が死去すると、翌月、四人組は逮捕された。

 七七年(同五十二年)七月、トウ小平は党や政府等の職務に復帰し、党副主席、副総理として再び活躍することになる。

 正義も負ければ悪とされる。悲しいかな、それが社会の現実である。それが歴史の常である。なればこそ、正義の道を行く者は、断じて負けてはならない。

 七八年(同五十三年)の八月、北京で日中両国外相が日中平和友好条約に調印した。

 そして十月、トウ副総理が黄華外相と共に訪日し、批准書の交換式が行われた。

 日本側は総理になっていた福田赳夫と外相の園田直らが出席。両国外相によって批准書が交換され、遂に同条約は発効したのである。

 平和友好条約は前文と五カ条の条文からなり、前文では「アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させる」ことが謳われていた。

 反覇権条項は、日中共同声明通りの内容で、第二条に盛り込まれた。

 「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」

 また、第四条には「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」とある。ソ連に配慮しての条文である。  

 山本伸一は七五年(同五十年)四月、三度目の中国訪問を終えると、副総理であった福田赳夫と会談し、日中平和友好条約に対する中国側の考えなどを伝えていた。

 福田は「ありがたい。ありがたい」と、伸一が恐縮するほど深く感謝の意を表した。

 ともあれ、伸一が六九年(同四十四年)六月、連載中の小説『人間革命』のなかで、日中平和友好条約の締結を訴えてから十年目にして、条約は現実のものとなったのだ。

 歴史は動いたのだ!