小説「新・人間革命」 人間外交42 4月21日

一九七〇年(昭和四十五年)三月に起こったカンボジアのクーデターに、山本伸一は、激しく胸を痛めてきた。

 彼は六一年(同三十六年)の二月十一日、つまり戸田城聖が存命ならば六十一歳の誕生日を迎える日に、カンボジアアンコール・ワットを訪ねている。

 生い茂る緑のなかに立つ、壮大な遺跡は、往時の繁栄と平和を象徴しているかのようであった。

 また、現地の人たちの穏やかな笑顔が、心を和ませた。

     

 雲の井に 月こそ見んと  願いてし  アジアの民に  日をぞ送らん

       

 伸一は、戸田のこの和歌を思い起こしながら、胸のポケットから師の写真を取り出し、アジアの平和のために生き抜くことを誓ったのだ。

 カンボジアには、六六年(同四十一年)一月に支部が結成され、フランス人の夫をもつ、キクヨ・ラロッシュという女性が支部長になった。

 メンバーの多くは、日本人女性であった。彼女を中心に、座談会も活発に行われた。

 功徳の体験等が語り合われ、感動があり、笑いがあり、決意があった。

 日本から来たメンバーも、豊かな自然に恵まれ、人柄のよい気質の人が多い、カンボジアが大好きであった。

 だが、クーデターが起こり、キクヨ・ラロッシュら外国人のメンバーは、後ろ髪を引かれる思いで、カンボジアを去っていった。

 カンボジア人と結婚した日本人女性をはじめ、何人かのメンバーが残ったが、内戦状態となったカンボジアでは、座談会を行うこともできなかった。個人的に連携を取り、励まし合うことが精いっぱいであった。

 戦火のインドシナにあって平和が維持され、オアシスにもたとえられてきたカンボジアが、流血に染まり、メンバーの消息さえわからぬことが、伸一は心配で心配で仕方なかった。

 彼は、ひたすら、カンボジアの平和を願って、題目を送り続けてきたのである。

 同胞同士が争い、殺し合うことほど、悲しいものはない。シアヌーク殿下の苦しみは、いかばかりであったことか。